1980年代。
この十年間を神奈川県民として暮らせたのは、ほんとうに幸運だった。
今でも時々そう思う。
私は、「体育」「スポーツ」といった類の活動が好きではない。
中学校に入っても、週末を全部犠牲にしなければならず、体力的にもしんどいような部活動はごめんだ、と思っていた。
かと言って、文化部にもこれといって興味をそそられるものは無かった。
そんな怠け者で出不精な13歳だから、唯一の楽しみと言えば、毎日、学校から帰って、刑事ドラマの再放送を見ることぐらい。
今、スマホやゲームにどっぷり浸かっている子供や甥っ子たちに対し、あまり偉そうなことを言えないのは、恐らく、ダラダラ中学生だった当時の自分に、今もなお後ろめたさを感じているから、なのかもしれない。
あの頃の私にとって、「テレビは世界の中心」だった。
いや、むしろ私の方が「テレビの周囲をぐるぐる回って」いた、というのが正しい。
学校が終わると、おしゃべりしながらちんたらちんたら歩いて帰りたい同級生につかまっては大変だ、とばかりに、終礼と同時に一人ダッシュで教室を飛び出し、家路を急いだ。
運が良ければ、当時大ファンだった寺尾聰さんが出演していた「大都会PART III」(再)の結末部分にギリギリで間に合うかもしれないから。
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(ちなみに、この頃、我が家にはまだVHSビデオデッキは無かったです。もしあれば、お目当ての番組がばっちりタイマー録画されていたはずなので、 ダッシュして帰る必要も無かったの ですけどね~。 当時、ビデオデッキはまだまだ高嶺の花でした。 それほどリッチではなかった我が家では、ここから更に2年経ってからようやく手に入れることとなります...。)
「大都会PART III」が終わると、お次は4時からは「太陽にほえろ!」の再放送だった。
粗野な言葉の応酬と、銃撃戦や殴り合いといった暴力シーンをフルに堪能できる、男臭い昭和の刑事ドラマ・豪華2本立てを見終えてすっきりしたところで、今度はテレビ東京(当時は「東京12チャンネル」)へと移動。
弟でも楽しめるような懐かしアニメの再放送を、延々と見続けるうちに、待望の晩ごはんとなる。
で、食事を終えるやいなや、またもやテレビの前へと舞い戻る。
まったく、今から考えると実にしょ〜もない、ぐうたら極まりない日々であった。成績が急降下して行ったのも、至極当然であろう。
テレビ廃人と化しつつあった中学最初の1年間は、このように締まりのない状態で、無駄に過ぎていった。
ところが、ありがたいことに、堕落した日々の連続に終止符が打たれる日が遂に訪れる。
時は1982年の2月初め。
アメリカやイギリスのロック&ポップミュージック、いわゆる「洋楽」の素晴らしさに、ある日突然目覚めてしまったのだ。
好きになれば、少しでも情報を得たい、できるだけ多くの音楽を聴いて詳しくなりたい、と思うのは当たり前。
ラッキーなことに、冒頭でも書いた通リ、私は神奈川県・県央地区の某市に住んでいた。
皆さんもご存知だろうが、神奈川県内には厚木基地(不思議なことに、地理上の場所は厚木市とは少し離れているのだが)・横須賀基地を初めとして、数多くの米軍施設がある。
そうした基地施設に配属となって来日したアメリカ人の軍人さんや、その家族が数多く住んでいることもあり、神奈川では県の全域でFEN(Far East Network)という、24時間ノンストップの100%英語放送を受信することができた。
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(毎夏恒例の、座間キャンプを地元の人に開放して行われる盆踊り大会。
高校の同級生で、卒業して最初の夏休みにこのお祭りに行き、アメリカ人の男性と運命的な出会いを果たし、20歳そこそこで国際結婚、既にお孫さんまでいる...という人を知っています。なんてまぁ、濃ゆい人生!)
ちなみに、FENというラジオ放送局はもうこの世には存在しない。
1997年に改称されて、現在はAFN(American Forces Network)と呼ばれているらしい。
周波数はAM810khz、と、NHK第二とTBSラジオのちょうど真ん中辺りに位置していた、FEN。
このラジオ局を聞き始めたのは、インターネットなるものが日本に伝わるよりもはるか前、1980年代前半の頃であった。
「金は無いけど暇はある(←帰宅部だしね...)」、しかも英語と洋楽は同級生の誰にも負けないほど好きだった中学生にとって、このFENの英語放送がどれほどありがたかったことか。
毎週土曜日、ラジオ日本で夜11時から放送されていた湯川れい子さんの解説付き「全米トップ40」も欠かさず聞いていたけれど、FENのAmerican Top 40 では、それよりも新しい、できたてほやほやのTop 40チャートを40位から1位に至るまで、全曲ノーカットで4時間にわたり放送してくれていた。
当時の放送を録音したものがYouTubeに上がっていたので、久々に聴いてみた。
いや~、結構鮮明に覚えているもんだ。
DJのケイシー宛にお便りを出し、遠くにいる誰かさんにプレゼントしたい一曲をリクエストするコーナー・"Long Distance Dedication"も、当時は「ん?長距離+献呈...って、何だ?」と、辞書を引きながら首をひねっていた。(何回か聞いているうちに、意図はつかめてきたけどね。)
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(R.I.P.ケイシー・ケイサム。2014年にお亡くなりになったんですね。)
洋楽にはまってから日が浅く、少しでも多くのことを知りたい、学びたい、と、カッチカチに乾いたスポンジのように吸収力がMAXになっていた、当時の自分。
毎週土曜日午後1時から始まる"American Top 40"のひと時を、どれほど楽しみにしていたことだろう。
あれは、ひょっとすると生涯最高の英語教材だったかもしれない。(しかも、無料だし。)
一時期は、曲名とアーティスト名を40位から1位まで聞き取って、自分オリジナルの「トップ40ノート」を作りさえした。(高校に入ってからは、忙しくてそれもできなくなったけど。)
毎週ノートに記録すると決めたからには、正しくタイトルを聞き取り、正しい表記でもって書取らねばならない。
スペリングが分からない時は、辞書で必死に調べる。それでも怪しければ、雑誌「MUSIC LIFE」の一番新しい号に載っている「今月のビルボードTop100」を調べ、それと思しき曲のタイトルがランキング下位の方で登場していないかどうか、チェックしてみる。
それでもなお判明しない単語やスペリングがあれば、仕方無い。とりあえず放置だ。また来月のMUSIC LIFEが出たら、その中のビルボードTop100を見て、チョチョイと直しておけばいい。(←結構いい加減だった。)
後年知ったことだけど、この「トップ40ノート」作りって、外国語学習法の一つである「ディクテーション」(耳で聞いた文章を書き取る)という作業とかなり似ている。
あの頃は、何の効果も見返りも求めていなかった。ただ純粋に楽しいから、音楽に関係した情報を記録すること自体が嬉しいから、誰に言われなくっても続けていけたんだけどね。
今思うに、そうやって自発的に、楽しいから始める!面白いから続ける!といった類の学習が、長い目で見れば一番自分の血肉となって自分を助けてくれる...のではないだろうか。
もう一つ、FENにはAmerican Top 40と同じくらい思い出深い番組があった。
平日の2時からやっていた、メアリー・ターナーというちょっと低めの素敵な声をしたお姉さんDJの単独番組、「メアリー・ターナー・ショウ(Mary Turner Show)」だ。
通っていた公立中学校では、それなりに周囲と話を合わせることもできていたし、浮き過ぎない程度に明るく、人畜無害な一生徒として振る舞うことだって、なんとかできていた。
でも、それはあくまでも「仮面」を被った、嘘の自分。そんな演技ばかりしていて、毎日が楽しいわけがない。
そうした嘘くさい学校生活で大量に生じたストレスを解消しようとしてなのか、短縮授業の日や、夏休み冬休みといった長期休暇の時は、部屋にこもってFENの音楽番組をひたすら聴きまくった。
(で、少し気合い入れて勉強に取り組むようにもなった。)
特にこの「メアリー・ターナー・ショウ」は、ハードロック中心の選曲だったため、毎日欠かさず聴いていた。
聴かないと、身体の中にあるいろいろな負の感情やら、うまく行かない現実への不満やらが、処理できないまま溜まっていくような、そんな気がしていた。
同時に、雑誌「MUSIC LIFE」を隅々まで読みながら、少しずつ買い集めていたハードロック系のLPレコードばかりを聴きまくった。
「暗い...」
「変...」
そう思いたきゃ、思ってくれたって、一向に構わない。どうぞご自由に。
周囲に洋楽を聴く人なんて一人もいなかった当時の私にとって、本当の意味で「心の友」と呼べるのは、ラジオと本・雑誌と、そしてレコード。
ただ、それだけあれば、充分だ、と思っていた。
だって、後は全て「どうでも良い、くだらないこと」だったから。
必要としなかった。
「メアリー・ターナー・ショウ」で流れてくるのは
Judas Priest や
Motorhead といった、重量感あふれるヘビメタ寄りのものから、
Journey や
Foreigner 、
J. Geils Band といった、「イマドキ(※80年代前半当時)のチャートヒット」に至るまで、まぁ、実にいろいろ。
全体的にハードロック色が濃厚であったことは、確かだ。
当時大好きで、全米No.1級の大ヒットを連発していた売れっ子のDaryl Hall & John Oates(ホール&オーツ)の曲も流れないかな〜、と楽しみにしていたのだが、待てど暮らせど、とうとう一度もそのようなことは起こらなかった。
彼らの場合、「ソフト・ロック」「AOR(アダルト・オリエンテッド・ロック=大人向けロック)」と区分されることが多かったから、ハードロック中心のこの番組のカラーにはそぐわないと判断されたようだ。
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("Portable Radio"...ラジオ好きとしては、やはりこの曲でしょ!)
The Who 、
Rush 、
ZZ Top 、
38 Special のように、海外ではビッグネームなのに、日本では全然人気の出なかったバンド(ヒント:上記4組とも、ルックスが若い女の子受けしない面々ばかり...。)も、番組中ではガンガン流れていたように記憶している。
番組は日本にあるFENのスタジオではなく、メアリーさんの地元・ロサンゼルスのラジオ局で制作していたそうだ。
アメリカのロック専門ラジオステーションでの流行を忠実に反映した末の選曲だったのだろう。
毎回、”Off The Record"というミュージシャンの肉声が流れるインタビューコーナーがあった。一回の放送分は5、6分。それを月曜から金曜まで流して、一組のアーティストをカバーする、という構成だったように思う。
雑誌で写真や記事は読んでいても、当時、ミュージシャン(特に、ハードロック・ヘビメタ系)の生の声を耳にする機会なんて、そう多くはなかった。
だから、毎週月曜日の放送では「おぉ〜〜〜!!! 今週はこんな大物が!!!」と、一人興奮していたものである。
American Top 40のケーシー・ケーサムと違って、しゃべりのプロがクリアーに発音してくれる英語ではないし、(中学生だった当時は知るよしもなかったが)方言や訛りなども相当あっただろうから、話の内容はほとんど理解できなかったけど。
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フレディー・マーキュリー存命中の1986年に行われた、こちらのクイーン・インタビュー。珍しく、4人の発言部分がほぼ均等になっている。(寡黙なことで有名なジョン・ディーコンにもちゃんとしゃべらせている辺り、メアリー姐さん、さすがは凄腕インタビュアーですぞ!)
アメリカでは既にMTVが24時間放送を始めていたから、このようなインタビューやドキュメンタリーを目にする機会も年を追うごとにどんどん増えていった。
だが、日本の場合、洋楽を取り上げるテレビやラジオの番組数がそれほど多くはなかった。
こういうラジオでのインタビューも、当時のファンにとっては貴重な情報源であったに違いない。
誰かがYouTubeに動画ファイルをアップしてくれて、手元のスマホやタブレットで大好きなスターの動画をいつでもどこでも再生し放題、なんて夢物語。
一体誰がそんな未来を予測できただろうか。
少なくとも、あの頃の私には全く考えられなかったよ。
高校に入った頃から、人付き合いに伴うストレスが著しく減ったせいか、徐々にハードロック系音楽(と、プロレス)への熱は冷めていった。きっと、身体がもう必要としなくなったのだろう。
それに伴い、自然と「メアリー・ターナー・ショウ」からも遠ざかるようになっていった。
代わって好きになっていったのが、イギリスの、いわゆるニューウェイブというか、シンセサイザーを多用したエレクトロ・ポップelectropop/シンセポップ synthpopと呼ばれるタイプの音楽だった。
残念ながら、あくまでも「米軍放送」であるFENでは、全米チャートで上位に来るほどの大ヒット(例:
Tears for Fears )でもない限り、この手の音楽がかかることはまず、期待できない。
1985年。
スクリッティ・ポリッティScritti Polittiというイギリス(ウェールズ)人のグリーン・ガートサイド、デヴィッド・ギャムソン、フレッド・マーという二人のアメリカ人を組み合わせたバンドの音楽に出会ったことで、FENと私は別の方向へと進み始める。とにかくグリーンに夢中だった私は、趣味・志向が完全に「イギリス寄り」へと変わってしまったのだ。
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FENを聴く頻度もますます少なくなっていった。
部屋にいる時はいつ、いかなる時でも、
彼らのLPレコード"Cupid & Psyhe '85" をかけるのが慣例となってしまったから、だ。
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また、ようやく手に入れたSONYのポータブルカセットプレイヤー(まだMP3プレイヤーじゃないですよ!それは20年先の話。)・Walkmanのおかげで、深夜だろうと外出時だろうと、好きなアルバムをダビングしたカセットを、周囲に気兼ねすることなく、思う存分聴けるようになったから、だ。
そうなってくると、「どうせ好きな音楽なんてかかりっこないさ」と、冷めた聴き方しかしないようなラジオ局・FENとは自然と疎遠になるしかない。
聴くのはもっぱら、イギリス系ポップミュージックを積極的にかけてくれる、
ラジオ日本の夜の番組 と、週末深夜のチャート番組のみ、ということになる。
(ラジオ日本の番組については、また別の機会に書くとしよう。)
80年代も後半にさしかかると、大学受験のための勉強もしなければならず、FENを聴くこともほとんど無くなってしまっていた。
(確か86年だったかな、
スクリッティのシングル"Perfect Way "が全米ビルボードチャートで最高11位まで上がったのは。あの時だけはさすがに必死で聴きまくったけど。)
既にイギリスびいきへと完全に宗旨替えしており、アメリカ英語しか流れてこない(←当たり前だ!)FENにも魅力を感じなくなってしまっていた。
誰の人生にも三つの坂があるという。
上り坂、下り坂。
そして、「まさか」。
はて、あれほどまでに英国好きだった私が、今こうしてアメリカで暮らしているのは、一体なぜなのだろう...???
三つ目の坂・「まさか」がここで来るとは、ねぇ。
数年前、ふと懐かしくなって、「そういえば、あのFENのメアリー・ターナーさん、今どうしているんだろう?」と、ネット検索してみたことがある。
驚いた。
DJとなったからには、誰もが一度は夢見る冠番組を持っていたメアリーさん。それも大都市・ロサンゼルスエリアという激戦区で、長年キープしていたのだから、すごい。
しかも、米軍放送ネットワークを通じて、世界中の聴取者に名前が知れ渡っていた。
なのに、彼女は栄光に背を向け、90年代に入るとラジオ業界を離れてしまう。
何でも、一念発起して大学へと戻り、大学学部、そして大学院で専門的なトレーニングを重ねた末、心理学の博士号を取得したのだそうだ。
現在はドラッグ・アルコール嗜癖の治療を専門とするカウンセラーとして、活躍中。様々な施設や慈善団体とも連携しながら、独立してお仕事しているらしい。
(ソース:
http://afrtsarchive.blogspot.ca/2016/07/mary-turner-1985.html#uds-search-results )
メアリーさんは、"Off The Record"という番組内の名物インタビューコーナーで、数え切れないほどの有名ロックミュージシャンに直接会って、話をしたに違いない。
そうしたお仕事を通じて、あまりにも多くの人々が薬物や酒の誘惑に負けてしまい、転落していく様子を目の当たりにしてしまったのだろう。
華やかなステージでの輝きの裏には、とてつもなく深く、黒々とした闇があることを、嫌というほど見せ付けられたのだろう。
ほんのちょっとのつまづきがきっかけとなって、命を落とし、二度と帰って来なかった人達だって数え切れないほどいるからなあ。
ロックミュージック、とは、そうした危険が常につきまとう、やくざな業界である。
仮につまづき、転落したとしても、どうにか生きて還って来れた人は、まだラッキーな方、と言えるだろう。
(病死や事故死も混じっていますが、でも、多いですよね。薬物・アルコール絡みの早すぎる死。かく言う私も、いつの間にかFreddie Mercuryの没年齢を追い越してしまいました。
名声と安定した収入とが約束されていたラジオの仕事を捨て、あえて困難な嗜癖治療・心理療法の世界へと身を投じ、一人でも多くの人を助けるという道を選んだメアリー・ターナーさん。
昔馴染みの人(声だけ、だけど...)が、このような立派な選択をし、活躍しているということを聞くと、なんだかこっちまでじわりじわりとうれしい気持ちになってくる。
いいなあ。その強さ、潔さ、カッコいい生き方。
見習いたい。