昨日、Facebookに投稿されたキャロライン・メイス(Caroline Myss、1952−)の、「本日のプチ名言」(Wis-bit)。
過去記事のコメント欄でちょうど彼女の名前を出したこともあって、訳してみました。この文章を今、必要としている方(もちろん、私自身も含みますよ。)の心にキャロラインのメッセージが届いてくれればいいな、と思い、掲載します。
誰かを...そして必要とあらば、あなた自身をも許してあげるために、今、何をしなければならないのか。よく考えてみてください。
もし、最後のけじめとして誰かと会って、話し合いの場を持つ必要があるとしても、私的なお荷物案件を相手にぶちまけて、責め立てるような口調は使わないように。
相手を責めずにいられない、ということは、あなたにはまだ心の準備が出来ていない、ということを意味します。
その問題を手放して立ち去るには、まだ時期尚早なのです。
あなたの思いを手紙に託し、その人に読んでもらわねばならない、と感じるのであれば、それもいいでしょう。
でも、その動機は、あくまでも自分自身が置き忘れてきた魂を過去から取り戻すこと、でなければいけません。また一つ、怒りに満ちた文章を相手に送りつけるような真似をしてはならないのです。
何らかの儀式を執り行って、過去のある時点に残してきてしまった魂を呼び戻しましょう。誰のためでもない、自分自身のために。
自分だけの儀式を執り行うことによって、これまでずっと抱えてきたありとあらゆる心の傷から生じた負の遺産を手放すのです。 きちんとした儀式にするか、自分一人だけの祈りの時間とするか、それはあなたのお好み次第。
肝心なのは、「私は、許します」という声を、何らかの「公式な」やり方でもってきちんと形にする、ということ。
「許します」を何らかの形にできてはじめて、 私たちは新たなスタートを切ることができるのです。
「許す(forgive)」
という表現がピンと来なければ、
「あれはあれで仕方が無かったんだな。
あのことはあれなりに意味があったんだな。
もう、いつまでもしがみついているのはやめよう。」
といった解釈でもOKなんじゃないでしょうか。(私はむしろこっち。)
上の文章が気に入った、もっと読んでみたい、と思った方には、こちらの一冊がおすすめ。
何度も何度もしつこいですが、原題は”Why People Don't Heal and How They Can"(人々が治らない理由、そして治るための方法)ですからね。
キャロライン・メイス
サンマーク出版
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古書店を当たれば、ハードカバー単行本が激安で見つかります。ご予算重視の方は、そちらもどうぞ。
ちなみに、私が「エックハルト・トール:道の駅。でも最終目的地ではない。」で、ゆうべ匿名の読者の方宛に書き込んだコメントはこういうものでした。一部抜粋し(少々訂正も加えて)、貼り付けておきます。
「心の傷」、ですか...。
正直言ってしまいますと、最近、そうしたトピックには急速に興味を失いつつあります。
今の自分にはもう必要ない話題だな、もう深入りすることは無いな、って、感じています。
いろいろご推薦いただいたのに、気分を害されたら申し訳ありません。
「エイブラハム」、エックハルト・トール、「アストラ/アストラル」の記事でも触れた米北西部の某女性講師/著者(←この人だけは!って感じの、とても素敵な人だったんですけどね。)...といった具合に、ここ数年のうちにガッカリ体験がちと続きすぎましてね。もう、生きてる人間にはコリゴリだよ、っていうのが本音です。
そんなわけで、「こんなメソッドがあるよ〜」
「こんな風にしたらいい気分になれますよ〜」といった謳い文句で売出し中の、存命中の人には簡単に心を許すな!金出すな!疑ってかかれ!と考えるようになってしまいました。
存命中の人はコワいですよ。いつ、豹変してわけわからんこと言い出すかわかりませんからね...。
そんな私もキャロライン・メイスだけは何故か気に入っているのですが、それは
”Stop speaking woundology!”(「傷理学」でもって語るのはおやめなさい)
※woundology:「傷理学」←心理学、の「傷」バージョンという彼女の造語。邦訳では「傷の言語」という表現があてられています。
という、幾度も繰り返されるメッセージが好きだから。今の自分に必要だったから。
...という理由ではないかな、と思います。
邦訳の版元はサンマーク出版ですが、キャロライン・メイスという人自体はニューエイジ系のテロ〜ンと甘い癒し系の雰囲気とは恐ろしくかけ離れた、鬼軍曹・スパルタ式のおばちゃん(笑)。←某ホソキ先生とキャラがかぶるか!?
「いい加減に下ばっか向くのは止めて、さっさと歩き出せ!
働け、そして祈れ!」って感じですかね。カトリックの怖い尼さんみたいな人。
メソッドとか、「How to」とか、そういう読者サービス、全然無し。
読んだ人がいい気分になってくれればいいな〜とか、多分、微塵も考えてないです。
最近、「ほら、この古傷がぁ!」
「過去から引きずっている痛みが、まだ消えてなくって!」
といったとらえ方をするのが、本当に自分にとって有益なことかどうか、はなはだ疑問に感じられるようになりました。
初舞台でめちゃくちゃ上がってまずい演奏をしちゃった音楽家が、10年、20年...と経験を積んだ今もなお、本番前になるとその初舞台を思い出してはテンション下げてしまうような、そんな無駄なことをやっているんじゃないか...って、最近、思われてならないんですよね。
(もちろん、これはあくまでも私個人の例です。より深刻な傷を負った方の場合は、また別の話となるでしょう。)
匿名さんがおいくつだかはわかりませんが、私(60年代後半生まれ)よりはお若いのではないかな、と、推察いたします。
私くらいの年になると、同級生の身にいろいろと辛い運命が降りかかってくるのを見聞きすることが急に増えるんですよ。
「A君、鬱になってしまって自殺したらしいよ...」
「女子バスケ部のBちゃん、子宮がんで亡くなった。子供もまだ小さいのに。」
「C君の親、認知症が進んじゃって、毎週末車で実家に帰らなきゃいけないんだって」
「D子、離婚してから一度も旦那に子供と会わせてもらってないんだってよ」
「E君、経営していた会社も順調だったのに、この4月にがんで亡くなったんだって」
...自分の悩みなんて、彼らの抱える(抱えていた)辛さに比べたら、一体なんぼのもんじゃい、も〜、小さい、小さい!って、嫌でも思えてきます。
傷とか何とか称して、大真面目にいつまでもこねくり回して、いつまでもwoundologyにどっぷり浸ったような独り言繰り返しているのが恥ずかしくなったんですよね...。
もっと健康なままで、もっと長く生きていたかったであろう、今は亡き元・同級生たちの無念さを思うと、
「自分はそこそこ健康で、そこそこ気力もあって、しかも周囲の人々にも恵まれている。もうwoundologyになんて関わっていないで、悔いの無いように今の生を全うしなきゃ!何か世界に貢献しなきゃ!」と、言うしかないんですよ。
いつお迎えが来るかなんて、誰にもわからないわけですし。事故や天災は降りかかる人を選びませんからね。
誤解の無いように急いで付け加えますと、過去記事、それから元の楽天ブログでもさんざん書いたように、私も斎藤学さんや、「毒親」本、アダルトチルドレン本はかなりの冊数を読んできました。ジョン・ブラッドショーとかの洋物だって、有名ドコロは一応まぁ、一通りチェックしてきました。
そんな人間でも、周囲の人々が体験している(体験した)【運命】というものの冷酷非情さの前には、我が身の生き方を省み、考え方の癖を変えざるを得なくなった、ってことでしょうかね...。
死ぬ瞬間に「よくやった!悔いは無い!」と言い切るために、今、できることをやるしかない。
それに、Woundologyに浸っている間は、お腹の底から笑うこともごくわずか。
せっかく生かしてもらっているのに、そんな人生のままで終わっては、あまりにももったいない。
...となると、結局、キャロラインおばちゃんが何度も繰り返しているような
「下向くな、歩け、働け、そして祈れ!」という言葉に近い生き方が目標となりますよね...。
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