2016/09/26

史上最強のVOWネタ・「シーラ・イーストン」

先日、子供が通う日本人学校のバザーの古本市にて懐かしいこちらの本を入手する。
お値段、たったの25セントなり。残り物には福がある。




昔、VOWシリーズは5冊目か6冊目のあたりまで発売と同時に買いに走るほど熱心に読んでいた。
多分、今回買った文庫本の元となった単行本も、実家のどこかに大事にしまってあるのだと思う。(まさか勝手に処分されていないだろうな...。)


そこでふと、思い出したのが、今回のタイトルで取り上げたこのネタ。
誰が何と言おうと、史上最強のVOWネタはこれで決まり、だと思う。
(勝手にリンクさせていただきましたイラストレーターのタッド星谷さん、この場を借りてお礼を申し上げます。)


「シーラ・イーストン」。
https://plus.google.com/107117837862700567166/posts/NUdsyRvDLjy







下↓の「ベストオブVOW」の「なか見!検索」を開くと、真っ先に出てくるページなので、G+投稿埋め込みが見づらい、という方はぜひお試しあれ。

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1980年代の洋楽にあまり興味無い方のために、一応軽く説明しましょうね。
シーナ・イーストン(Sheena Easton)は、イギリスはグラスゴー近郊出身のソロシンガー。ご覧の通り、白い肌のスコティッシュである。


(ブルーのつなぎ...いや、ジャンプスーツ、って言うべきか、
どこで売ってたんだろう???)


シーナ・イーストンの方は1980年代初頭から快調にヒットを飛ばし、一時はプリンスと音楽上でも、私生活上でもかな~り親密になった。
確かに、シーラ・Eの経歴とほんの少しだけ、かぶる。
その後の彼女の活躍については、Wikiさんにおまかせするとしよう。 ←この項の最後の部分書いた人、明らかにVOW読んでますな…。
私、カラオケでよく彼女の初期のヒット曲歌いますよ。"9 to 5 (Morning Train)"とかね。だって歌うとスカッとするんだもん。



一方、シーラ・E.(Sheila E.)は、こちら
アメリカ西海岸・サンフランシスコと隣接するオークランド出身の、パーカッショニスト(打楽器奏者)であり、シンガーでもあるエキゾチックな美女。
メキシコ系+アフリカ系の血を引き、一族内には腕利きのプロミュージシャンがずらりと名を連ねる。


もう、かっこいいの何のって。
足で銅鑼(ドラ)・・・じゃないでしょ全くもうっ!・・・
シンバルを威勢よく蹴り上げるその姿、一度見たら絶対に忘れられない!


5歳の時から父親と一緒にステージに立ってきた、というシーラ・E.。
ラテンジャズやサルサといった、西海岸ラテン音楽の大物ミュージシャン達に囲まれて育ったため、音楽面では非常に恵まれたスタートを切った。
演奏の腕前も完璧、しかも美貌も完璧。
デビューヒットとなった「グラマラス・ライフ」のビデオを見た瞬間から、私にとって彼女は「憧れのお姉さま~♥」的なお方であった。



上のVOWネタでは、シーナ・イーストンとトホホな混同をされていたことでもわかるように、彼女もまた、故・プリンス(今年の4月22日に急逝)とは公私ともに非常に関係の深いミュージシャンだった。実は婚約まで行った過去もあった、という。
結局、男女としての付き合いには終止符を打ったものの、プリンスがこの世を去るまでずっと友人関係は続いていたらしい。



2010年には、二人揃ってスティーヴィー・ワンダーのパリ公演にも飛び入り。
よだれものの豪華メンバー共演を前にしたお客さん、そりゃーもう狂喜乱舞雨あられ、でしょうねぇ。いいな〜。


(まさかこのわずか6年後にプリンスがこの世を去るなんて...。
本当に人の命なんてはかないものです。)

今日は、そんな素敵なシーラ姉さまの、辛い過去、そしていかにしてそこから彼女が這い上がって来たか、という話、ちょっとだけ紹介したい。


こちらは、シーラ・E.、2014年の自叙伝発売に際してのテレビインタビュー。
その晴れやかな笑顔の裏に、地獄のような幼少時の記憶がこびりついていたなんて、一体誰が予想し得だろうか。

カルロス・サンタナとの恋愛に話が及んだとき、「ギタリストに弱いの♥」と告白しちゃうシーラ・E.、最高にかわいくって魅力的だった。
(私の場合はピアニスト...おっと失礼)

結婚にこそ至らなかったけど、プリンスのこと、本当に好きだったんだろうなぁ。

(以下、上の動画に添えられた説明文の和訳である。) 
演奏家としてはゆるぎない名声を獲得したシーラ・E。
幼い頃からエンタメ業界に入った彼女は、この世界の甘いも酸いも、表も裏も、ありとあらゆるものを味わってきた。
 

 父親は著名パーカッショニストのピート・エスコヴィード。彼女の才能は、ラテンジャズやサルサの超大物ミュージシャンが出入りするレコーディングスタジオへの出入りを通じて育まれていった。 

だが、このカリフォルニア州オークランド生まれの少女を待ち受けていたのは、「性的虐待の犠牲者」としての苦悩だった。 

「私は強姦されたの」
シーラ E.は語る。
加害者は年上のいとこたち、そして子守役(ベビーシッター)として一家に出入りしていた男性。
わずか5歳の頃の出来事だった。

「私なりの証言を白日の下にさらすことで、多くの人と痛みを分かち合いたかった。多くの人...特に女性...は、『自分だけがこんな目に』って思い込んでいる。でも、そんなことはない。あなただけじゃない。」

そうした話に加えて、プリンスとの婚約や、初恋の人・カルロス・サンタナとの秘蔵エピソードがつづられている自叙伝・"The Beat of My Own Drum”(私自身が刻む、ドラムビート)の出版についても話してくれた。

「辛くてなかなか筆が進まない時も、確かにあった。私のような有名人っていうのは、できるだけ私生活は隠しておきたいものだから」と、シーラ・E.は執筆作業を振り返る。

現在、ドラマー、パーカションニスト、歌手として活躍中で、わずか5歳の時に父親が出演するステージで初演奏を披露した彼女。
今も精力的に演奏活動を続けている。
 舞台の上にいるときが何よりも幸せ、だという。ニューアルバム「アイコン Icon」も発売された。

「私の人生、グラマラス(魅惑いっぱい)でグロリアス(輝きいっぱい)よ。("I'm living glamorous and glorious" )」 
(以下略)


インタビューで語っていた彼女の自叙伝は、こちら。
美人やのう...。



もう一本の動画では、彼女が長年力を入れているという児童虐待の被害者となった青少年への支援活動が描かれていた。



シーラ・E.が恵まれない青少年を支援するチャリティ活動に熱心に取り組んでいることはもう何年も前から知っていた。
外面だけじゃなく、内側も強く、美しい人なのである。
彼女のことがますます好きになった。

以下、動画の内容を要約してみる。

全米では比較的名前を知られたAARPという慈善NPOがある。 
シーラ・E.がここで果たした役目とは、恵まれない幼少期を過ごしたり、虐待の被害者となったりして、心に傷を負った青少年を支援することだった。 彼らのメンター(助言者)として、一緒に音楽を作り出す。それは、幼少時から音楽業界に身を置き、卓越した演奏能力で世界的な知名度を誇る彼女にとってはまさに打ってつけの役割であった。
ここでは、音楽の力によって少年少女たちが本来の自分自身が持っている声や個性を表現できるようになることを目指している。音楽作りという共同作業を通じて、彼らのひどく傷ついた自尊心も少しずつ癒されていく。時が来れば、力強く外の世界へと羽ばたいていくことができるようにまでなるはずだ。
「一種のセラピーよね」彼女は自身の活動をこうとらえている。
シーラ・E.自身もまた、幼い時におぞましいレイプ体験の被害にあっていた。この忌まわしい記憶と真っ向から向き合うきっかけを作ってくれたのは、彼女のマネージャーを務めるリンであった。
日本での滞在中、一緒に聖書勉強会をしていた時、リンさんはシーラ・E.にこう提案した。
「あなたが体験したことを、歌に託して表に出してみては?」

 幼少時に子守役(ベビーシッター)として雇われ、同じ敷地内に住んでいた男性。彼女は、この男性に幾度も強姦されていた。何十年間も必死に抑えつけていた自分の内面を表面化し、吐き出す作業。これは決して楽なものではなかった。

「私、こんな毒々しいものばかりずーっと自分の中に溜め込んでいたの?」
自分でも唖然としてしまうような、さまざまな負の感情が彼女の中から堰を切ったように噴出してきた。
3日間ノンストップで泣き続けた。

だが、あの時を境に自分の人生は大きく変わった、と彼女は語る。

音楽の力を借りて自分の内面を表現することで、長年のトラウマの呪縛から逃れることに見事成功した、シーラ・E.。
その体験を元に、決して幸せとは言えない幼少期を過ごしてきた若い世代に向けて、
「夢は大きくもって」
「希望を忘れないで」
とのメッセージを今日も訴え続けている、という。

トラウマからの回復という、非常に私的であり、しかも多大なる痛みを伴う作業。
それを自分ひとりの中だけで片付けてしまわずに、敢えて公共の電波上で傷口を世間に晒すという勇気ある行動を、彼女は選んだ。
自分と同じ、悪夢のような過去に苦しむ人々の役に立ちたいという道を選んだ彼女。なかなかできることではない。


だから私はシーラ・E.を心から尊敬したいと思う。


若い世代を励まし、勇気付け、未来へ向かって歩き出すための手助けをする。そうした活動にも「ひとりの子供から、今、できることをひとつづつ。」取り組んでいる、というシーラ・E.。素晴らしいよね。
彼女のこと、これからも末永く応援していきたい。


月並みな言い方だけど、本当に「すごい人」っているんだね。

2016/09/19

「人は変わるの」

友達(元・友達)について、前回の記事で書き漏らしたな~と思っていた事柄(「人は変わる」)が、たまたま今朝出会った別の記事で取り上げられていた。
ちなみに、元の英文記事はこちら。


「友達と絶縁した私。もう後戻りはしない、その理由。」
"Why I Said Goodbye to an Old Friend & Never Looked Back"
(Collective Revolution)




(以下、埋め込みしたG+投稿でのコメント。)

「唯一無二の、親友」信仰。運命によって生まれる前から結ばれている「ソウルメイト」信仰と同じくらい、根強く生きている。時として、その信仰が「No.」という力さえ奪ってしまうことがある。 

筆者は若い女性。「ものすごいカリスマ性でもって人をひきつけるパワーのある」同性の友人と過ごした濃密な日々、そして彼女との別れを振り返る。一緒にいて楽しかったものの、行き過ぎた振る舞いや、人との争いも多かった元・友人。「ま、いいか。親友だもん。許してあげなきゃ。」と、目をつぶったことも一度や二度ではなかった。

何度かの衝突を経て、とうとう筆者は友人と袂を分かつことを決意する。「出会った頃の自分にとっては、彼女が必要だった。だけど、今は違う。人は変わるの。」
そして、筆者は読者に向かって呼びかける。 

「未知の領域に一歩踏み出すことを恐れちゃだめ。怖いからって、賞味期限の切れた人間関係をずるずる引きずっていては、『もうやめたい』という本音と、『でも、やめられない』という嘘の板ばさみになって苦しむだけ。心と頭がばらばらになり、自分が自分でなくなっていく。」

「去る人は去るし、続く人は続く。でも、自分自身との関係だけは死ぬまでずっと続くということ、どうか忘れないでほしい。」

2016/09/18

疎遠になってしまった「友達」。後悔したって仕方がない。

これ、「ちょっといい話」として読まれたがっている記事なんだろうけど...。



言わんとしていることは、わかる。
身近な人の死を経験したことのある人、何らかの形で生と死について考えた経験のある人であれば、おおむね共感できる内容だろう。


文中に出てくるナース(看護師)は、ブロニー・ウェアさんというオーストラリアの方。
記事中では明記されていないが、2012年にHay House(*注)から単行本も出されているそうな。
あ〜、道理で、イギリスのThe Guardian紙などでも大きく取り上げられていたわけだ。

【参考記事】 Top five regrets of the dying  (02/01/2012 The Guardian)

いわゆる「ステマ」、つまり巷で盛り上がっているというイメージを演出するための「ステルス・マーケティング」の一環だったのか。
Hay Houseという出版社がいかにも好みそうな売り出し方だ。

*注:Hay House/ヘイハウス=玉石混交のニューエイジ・スピリチュアル系に力を入れている、新興の大手出版社。アメリカ版サン◯ーク出版ってところかな。あられもない派手な宣伝の仕方とか、大げさなキャッチコピーとか、猛プッシュする作家や本の選び方とか、「双子か?」って言いたくなるほど、似通ってます。
(...ちなみに、私が幾度も取り上げているキャロライン・メイス(Caroline Myss)は、Hay Houseとサン○ークの両方から本/オーディオブック出してますがね。怪しさ倍増じゃん...。)
 創業者は、自らも数多くの自己啓発本を執筆していることで知られるルイーズ・L. ヘイ 


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しかも、その年の暮れには、日本語版も出ている。それも、新潮社という、これまた大手出版社から。
早っ!!!


(上の洋書版唯一の五つ星カスタマーレビュー、明らかに日本語版関係者の手による「宣伝文句」ですね。ホント、コウイウノ、ヤメテホシイ...。
書く方も書く方だけど、内容が全然伝わらないようなやらせレビューをレビューとして放置するAmazonさんの姿勢もどんなもんかな〜、と思う。)


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記事の中で、一箇所だけ引っ掛かりを感じたところがあった。
それは、




「4. 友達をもっと大切にして、
連絡をとっておけばよかった」



の部分。



「連絡をとっておけばよかった」と死ぬ段になって悔やまれるような付き合いレベルの「友達」、ねぇ...。



あのー、そういう過去のつながりしかない人のことを【友達】と呼ぶ癖、いい加減にやめてはいかがでしょう?
で、

【昔の知り合い】
【古い知人】
【以前、親しかった人】


にワンランク格下げ、でOKってことにしませんか。
断捨離、断捨離。



知り合いになった人は誰でも彼でも特Aランクの【友達】というカテゴリに突っ込み、後生大事にキープしておく。
音信不通となって久しいにもかかわらず、【友達 or not? 】と自問する嫌な作業は先延ばし。
そうこうしているうちに、「あの時、自分から連絡していれば...」と、楽しかった過去の日々を思い出しては、後悔ばかりが繰り返される、という悪循環に陥る...。




私だけが一人で叫んでもしょうがないか。
では、ちょっとこの辺でドクネットでつながっているスペシャルなドクター...じゃなかった、エリザベス朝イングランドの演劇界を代表する大御所劇作家であり、人間観察マイスターとしても知られるシェイクスピア先生にも聞いてみるとしよう。


「先生、『友達』って何なのか、わかりやすく教えてください!」


「今の君のあるがままの姿を知っていて
これまで君がたどってきた道をわかっていて
今、出来上がりつつある君を受け入れていて
なおかつ 君の今後の成長をやさしく後押ししてくれる。
それが友達というものだ。
−−−ウィリアム・シェイクスピア」

異議な〜し。
誰かを【友達】と呼ぶには、【今・現在】でのつながりが不可欠、ってことか。
さすがシェイクスピア先生。よ~くわかっていらっしゃる。
【友達】とは、現在形・現在進行形で語り、未来に向かって続いていく間柄の人。
となると、過去でしかつながっていないような関係はやっぱり単なる【知り合い】として構わないんだな。



ちょっと雑談して、メルアド交換した程度の仲なのに、「あー、あの子は私の友達だよ〜」と、その場にいない第三者との仲良しぶりを周囲にアピールしたがる人。
時々お目にかかる。
日本でも、英語圏でも。



「友達に、連絡をとっておけばよかった」と死の床で悔やんでいる人々の中には、そうした「あっという間に誰とでも友達面(づら)シタガリーノ」なタイプの人々が大勢混じっているのではないだろうか。
彼らにとって、友達は「質より、断然、量!」。付き合いは「広く、浅く!」。
ユング心理学で言う「外向性」にかなり傾いた人たちだと思われる。



(FacebookなどのSNSで、特に有名人というわけでもないのに「友達」の数が何百人、何千人...という人がいれば、まずヘヴィーな外向型の人と見て間違いなさそう。)


【参考記事】
「内向性と外向性の違いってなに?科学的に検証する」(2015.10.26 カラパイア 掲載)


若い頃にはあちこちに顔出しては遊びに仕事に忙しかった彼ら。
そんな彼らも、いつかは年を取る。
身体の自由が効かなくなってきて、いざ死を目前にした時に気付いた。
辛くてしんみりした状況にある今の自分にただ静かに寄り添い、話に付き合ってくれるような人は、結局一人もいなかった...。


そういう絶望的な状況からこの「後悔」が出ているのだとしたら、ちょっとかわいそうだな、気の毒だな、とは思う。
死に対する恐怖と、孤独とのダブルパンチでもって、相当心がもろくなってしまっているのではないだろうか。



一人遊びが得意中の得意で、ちょっとやそっとの孤独では揺らがないよう、さんざん鍛えられてしまった内向型人間の私。
残念ながら、彼らがどれほど苦しんでいるかは、単に想像することしかできない。



もし、そのような「連絡とっておけばよかった...」と悔やんでいる人が、私とそこそこ親しい関係にあって、ゆっくりと話せる時間が持てるのであれば、こんな話をしようかな、と、思う。


確かに、昔親しかったお友達と「もう一度会いたかった」「話したかった」というあなたのお気持ち、痛いほどよくわかります。

かく言う私にも、「音信不通にしちゃって、悪かったなぁ...」と、後ろめたい気持ちを感じないでもない「元・友人」が何人かいます。 おそらく、彼女達とはこの先一度も会うことは無いでしょう。仮に会ったところで、空白期間にどうしていたか、どこに住んでいたか、と、互いの歴史を確認するだけの、表面的な会話しかできないはずです。

だったら、このままフェイドアウトでいいのかな、って。今はそう自分に言い聞かせています。

結局、そうした「元・友達」とは、それ以上の仲に進展する理由が無かったのです。別にこっちが悪かったわけでもないし、はたまた相手に非がある、というわけでもない。特別に強いつながりでもない限り、人と人との縁が途切れてしまうなんてことは、昔の村社会と違って入れ替わりの激しい今時の人間関係ではザラにあること。 仕方がないことさ、縁があればまたいつかどこかで会えるさ、と、ドライに考えた方がいいと思います。

最近では、進学、結婚、転勤などの理由で、国内ばかりでなく、海外へ移住する人も珍しくありません。新しい環境に馴染もうと必死に頑張るあまり、昔の人々とついつい疎遠になってしまうのも仕方ないですよね。

何もかもうまくやろうとしたって、どこか取りこぼしが出てしまう。悲しいかな、人間は所詮、不器用な生き物なんです。 人付き合いでも100点満点取らなくっちゃ!なんて、それこそ「絵に描いた餅」じゃないですか。そんな高い目標を掲げてみたって、どこかで無理が来ますよ。

切れてしまった縁に関しては、「残念だけど、仕方がなかった。」その一言だけで充分でしょう。 

悔やんだところで、自分の至らなさを責めてみたところで、今更その人との間がどうなるわけでもないですし。万が一、再会できたとしても、それで「元・友人」が即、「現・友人」に昇格して、昔のような親密な交流が復活するかっていうと...ねぇ。

そういうハッピーエンド風の展開、期待しない方がいいでしょうね。もうちょっと若い頃だったら、「それもありかも...♪(ワクワク)」なんて夢の一つや二つも見たかもしれませんが。

人と人との間に起こる「化学反応」(「クリック click」)って、そんな単純なものじゃない、と思います。間に空白期間をはさむような場合は、特に。


「どんな人でも、人生の各段階において
一人ぐらいは『友達』がいるものだ。
だが、『一生を通じて付き合える友達』
に恵まれる幸運な人々は、
われわれの中のごく一部に過ぎない。」
(作者不詳)

なぜ、ある人とは縁が長いこと続き、ある人とは疎遠になってしまうのか。

お芝居にたとえてみましょうか。
たとえば、劇中では端役を担当している俳優が、突然気まぐれを起こしたとしましょう。


『もっと長い間舞台上にとどまりたい』

『もっと主役と長い台詞でやり取りしていたい』

と、与えられた脚本から脱線していった、とします。


しかし、俳優としては、あくまでも脚本に書かれた指示に従わなければいけません。
「退場」とあったら、退場。
それが、共同作業でもって一つの作品を作り上げていく舞台人に課せられた、暗黙の絶対ルールです。


出番を終えたはずの俳優が唐突に舞台袖からしゃしゃり出てきたり、 はたまた脚本を完全無視していつまでもウロウロしたり。そんなこと、普通、あり得ないですよね。そんな勝手気ままを許してしまったら、お芝居自体が大混乱に陥ってしまいます。先も見えない、結末もまとまらない、ただの混沌(カオス)でしょう。そんな失敗作を見せ付けられたお客さんにしてみれば、「金返せ!」でしかありません。


だから、複数の人間が協力して何か価値あるものを作り上げるためにはある程度の「縛り」「秩序」「たたき台」が必要となってくるのでしょう。お芝居の場合は、それが「脚本」。

人間関係も、一種の共同作業です。数え切れないほど多くの出演者が複雑に入り乱れているように見えても、実は背後にしっかりとした「脚本」があるんだと思いますよ。でなければ、「どうしてこのタイミングであの人と出会うことができたんだろう?」といった、忘れられない偶然の出会いを説明することはできないでしょう。 
去っていくお友達を繋ぎ止められなかったのは、あなたが悪いからではありません。お友達が非情だったからでもありません。単に、あなたと絡む場面が終わって、脚本にしっかりと「退場」と指示されていたから、立ち去ったのです。もっと大きな、断れないほど魅力的な役柄のオファーを受けて、別の劇場へと移ったのかもしれません。


あなたも、彼らも、脚本の指示通りに動いた。
それだけのことです。 


(こういう「人のはかなさ」をいきなり冒頭から論じるような文学作品が
何百年もの間、大切に受け継がれてきた国。
日本人のそういう美意識、素晴らしいと思います。)

まぁ、自分が主演する【人生】というお芝居に、脚本を書くのは一体誰なんだ、なんて聞かれても、正直なところ「わかりません」と言うしかないです。「生まれる前の自分と、天界のアドバイザーさん達が協力して仕上げた脚本」って説は、私の中では一番収まりがいいですけどね。

人は誰もがそうした脚本を心の奥底に隠し持っている。
意識でもってとらえることはできないながらも、その脚本の指示に従い、【人生】という一つの長いお芝居を一幕、また一幕...といった感じで組み立てているんじゃないでしょうか。

あなたは、その【人生】というお芝居で、主人公という役柄を立派に演じてこられたではありませんか。途中で投げ出したりしなかった。それだけでも、大変なお仕事ですよ。
手に汗握るスリリングな急所も無事切り抜けたし、たくさんの暴徒が乱入してきて、主人公危機一髪!という場面でも、雄々しく闘い、勝利を収めたではありませんか。

 なのに、あなたは今もなお、過去を振り返り、「しくじった」「もっとうまくやれた」と悔やんでいらっしゃる。

これ以上、後悔し、ご自分を責める必要、ありますか?

「無いです。与えられた役割は、精一杯、演じました。」って、今日からは力強く言い切ってしまいましょうよ。 

過去は過去。「もっと〜できたのに。」「〜すべきじゃなかった」と、ご自分をいじめるような真似はなさらないでください。そばで見ていて、いたたまれない気持ちになります。

後悔する気持ちを、祈りへと変えていきましょう。 もう会えないかもしれない、懐かしい人々が、今この瞬間にも地球上のどこかで平和に、無事に暮らしていることを祈ってみませんか。 

その思い、きっと時空を超えて、相手のもとに必ずや届くと思いますよ。

 「バカバカしい」と思われるのなら、それも結構。一種のファンタジーなんだろう、と、笑って受け流してくださいね。

生死問答-平成の養生訓 (平凡社ライブラリー)
五木 寛之 帯津 良一
平凡社
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五木 スピリチュアル系の人の見解は、ファンタジーみたいにおもしろいので、つい物語として読んでしまいます。それによると、生まれてきたときには、あの世で計画してきたスケジュール表は、すべて忘れるようになっているから、この世では、自分で考え、自分で選択、行動しているように思えるけれど、じつはこれも、自分で描いた筋書き通りに歩いでいるだけだという。  
(...中略...)  
少なくとも、現在をつくっている過去の因果を、すべて肯定することで、あまりジタバタしない生きかたができるように思えますが。 


帯津 そうですよね。挫折によって、新しい可能性が生まれてくるということですね。少なくとも医者は、挫折を体験した人のほうがいい医者になりますね。すると挫折も、その人をいい医者にするための、筋書きなのだということになりますね。うん。楽しいですね。 
(「生死問答 平成の養生訓」五木寛之・帯津良一、平凡社、2011、pp.167−168)

五木さん、おもしろいです。
帯津先生、楽しいです。


五木 親鸞は、「わが計らいにあらず」という言葉をのこしていますが、ひとの人生のできごと、生老病死を考えると、私はいつもこのことを思います。
人生、 
「なるようにしかならない」、  
そして、さらに  
「しかしおのずとかならず、なるべきようになるのだ」 

と心のなかで納得します。そうすると、
不思議な安心感 
がどこからともなくやってきますね。 
(前掲書、p.168)

そう。
目指すべきは、この、安心感という最終目的地。
少しでも近づきたいのであれば、後悔という負の感情には背を向けた方がいい。
勇気を出して、逆の方向へと歩いていかないとね。




2016/09/08

嘘つきは、自己愛人間(ナルシシスト)のはじまり。

キャロライン・メイス(Caroline Myss)


今、6枚組CDセット”What Makes Us Healthy?”(人はいかにして健康になれるか...←意訳。)の3枚目を聴いている。





いや~、このおばちゃん、とことん「ブレない」ですね。清々しいほど。



嫌われても、叩かれても、そんなん知るか!って感じでズンズン我が道大股歩きしちゃってる。
岸見一郎さん(アルフレッド・アドラーの心理学をわかりやすく説明した著書を多数出されていることで有名。)流に言えば、
「嫌われて大いに結構!(おぉ、晩飯食うな!)」という決めゼリフが見事に決まる、勇者の中の勇者ってところだなー。


(「バカで結構、晩飯食うな!」という、人からバカ呼ばわりされた時に昔よく使っていた応酬言葉。 あの〜、ひょっとしてこれ、神奈川方面でしか使われていない「ご当地表現」なんでしょーか!?)



嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
岸見 一郎 古賀 史健 
ダイヤモンド社 
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アドラーせんせい、こ、これはもしかして仮面ライダーV3の変身ポーズでわ???

(加藤諦三先生がゲストの回で「人に好かれたい病」を告白していた大竹まことさん。
両親ともに有名芸能人ということで、陰ではいろいろと苦労もあったであろう辺見えみりさん。
岸見さんの誠実な語りによってお二人の素顔がうまく引き出された良い対話でした。)



とかく自分を甘やかし過ぎ、憐れみ過ぎ、特別扱いし過ぎな現代のわれわれ。

こうした甘ちゃん連中の性根を徹底的に鍛え直し、「ナルシシズム(自己愛)の害毒」から引き離してやるわよ、とばかりに、またもや鬼軍曹キャラを遺憾なく発揮しているキャロライン。
今回のCDでは、ブッダ(お釈迦様)の言葉や、「すべては幻」に代表される仏教の教えにかなり接近しているといった感じ。



「癒された~い」 「慰められた~い」



と期待した人、1枚目のCD開始から10分も経たぬうちに激しく後悔するはず。
(その手の人による怒りの一つ星レビュー、Amazon.comにいくつも掲載されてますね。これも、キャロライン・メイスにとっては「いつものこと」。想定内ですよ、想定内。)




彼女曰く、こうした自分甘やかしが特徴の「ナルシシズム(自己愛)」からいつまでも抜けられない人の生育史を発掘していくと、たいていの場合、6~7歳辺りの子供時代に、



「本当は真実を言いたかったんだけど、何らかの事情で言えなかった」 
「正直に白状することもできた。なのに、つい心が弱くなって嘘ついてしまった」


といった、


「真実」 「嘘」

の境界線を曖昧にして、自分の心の声を押しつぶしてしまった...という実体験が見つかる、という。



嫌われたくなかった。
親が怖かった。
自分一人だけ悪目立ちするのがいやだった。
...など、嘘をついてしまった理由はさまざまだが、


【真実を言い出せなかった】


という、6~7歳での決定的な体験がきっかけとなって、人は


【自分かわいさゆえに、保身に走る】


という逃げの態度を身につけてしまう、ということらしい。
人生のどこかで「これじゃダメだ」と気付いて、矯正しようと意識的な努力をしない限り、大人になっても「自分は悪くない、悪いのは他の奴らだ。世間だ。会社だ。何で自分ばかりがひどい目に遭うんだ~!」といった泣き言ばかり繰り替えすようになるのだ、という。
(これ、あくまでもキャロライン・メイス説ですからね、念のため。)



アメリカ合衆国初代大統領・ジョージ・ワシントンの、あまりにも有名な
「すみません。僕が桜の木を切りました。」というエピソード。
(もっとも、現在ではあれは一種の「都市伝説」だ、との見方が有力なようだが。
逸話では、ジョージ少年が厳しい父の前で「辛くても、真実を語ろうと勇気を振り絞った」とされるのが、7歳の時だった...と伝えられている。
「嘘=保身に走るか。それとも、真実=勇気を選ぶか」という、人生の大きな分岐点に差し掛かった6~7歳の小学校低学年児童に、


「嘘はだめです。
たしかに、真実はこわい。
でも、勇気を振り絞って真実を選べば、最後には必ず報われます。」


という教えをわかりやすく伝える道徳説話として「使える」ことが長年の歴史で証明されてきたからこそ、アメリカのみならず世界中で語り継がれる逸話となったのだろう...



以上、キャロラインおばさんによる仮説でした。



ここから先は私自身の勝手なつぶやき。CDの内容からは少し離れること、あらかじめお断りしておく。




6~7歳。
幼稚園年長から小学校入学にかけての、「【仲良し】と、【それ以外】の人間関係がそろそろ固まってくる時期」だよね?
【自分】と【他者】の力関係を天秤にかけて、「あぁ、今までずっと自分は『世界で一番エラい』なんて思っていたけど、実は自分なんて大したことない、つまらない存在なんだな。本当にエラいのは、【他者】だの方だった...。」
という、辛い結論に到達する子もいるかもしれない。


となると、この6〜7歳という時期を境目として


「仲間ハズレにされるのが怖くて...」 
「一人だけ目立ちたくなくって...」 
「ママの喜ぶ顔が見たくって...」


といった理由に駆られて、やむなく「嘘デビュー」を飾らざるを得ない子供たちがうじゃうじゃ出てきても全然おかしくはない。
最近の言葉で言うならば、「同調圧力に負けて」の嘘デビュー、ってことかな。



嘘自体が絶対的に悪い、と、聖人君子ぶるつもりはない。
目の前の人を傷つけたくなくって事実を曲げて、本当ではないことをつい、言ってしまったことは誰にでもあるはず。もちろん、私にもある。
英語でいう"white lie"といった類の嘘は、なめらかな人間関係をキープする上ではある程度避けては通れないものだ、と思う。



恋愛が絡む場面となると、誰でも嘘の一つや二つはついた(あるいは、「つかれた」)苦い思い出があるんじゃなかろうか?
「いいえ、無いです!(キッパリ!)」と断言できる方がいたらいたで、それは素晴らしいですがね。これからも正直街道を驀進していただきましょう。


デモ、イルノカナ、ソンナヒト…。





(リソ&ハドソン両先生によるエニアグラムの本で一番嬉しかったのは、Fleetwood Macの「元祖・美魔女」スティーヴィー・ニックスStevie Nicksと、元ユーリズミックスのアニー・レノックスAnnie Lenoxが自分と同じタイプに分類されていたこと。
ええ、どうせ単なるミーハーですよ。)




問題となるのは、それが恒常化してしまった時。
「こんなの、『プチ嘘』だよ。そう言う以外に仕方が無かったんだ。大したことじゃないさ。」と、悪いことしても自分を正当化するのが当たり前になってしまい、後ろめたいという気持ちも起こらなくなってしまう。

そこまで善悪の感覚が麻痺してしまうと、あらゆるシチュエーションにおいて


自分をごまかす


 という行為に、何の迷いも疑いも持たないような思考回路が固まってしまう。
同時に、どこまでが自分の奥から出てきた声で、どこからかが【他者から刷り込まれた内容】なのか、線引きする能力も衰えていってしまう。
善と悪。
自分の願望と他者の願望。
これらの区別がつけられないのであれば、人生が徐々につまらないものとなり、 生きる喜びを味わうことも難しくなっていくに違いない。


かくして、

自分は悪くない。自分は可哀想。
こんなひどい目に遭わされたからには、見返り貰わないと割に合わんわ。

といった発想にすぐ逃げ込みたがる【自分が一番かわいい!】ナルシシズム/自己愛人間が作られる……。
キャロライン・メイスによると、そういうことだ。



アメリカ人はどうだか知らないけど(高い離婚率と何らかの関係はあるのかも)、日本人って、それほど親しくない人々との付き合いにおいては、別に嘘をつく必要が無い場面においても「プチ嘘」を安易に連発する大人が多いように思う。
社会全体の流れとして「嘘をつく」ことへの抵抗が年々薄れつつあるような、そんな気がしてならない。



たとえば...



「今度またお茶しましょうねー♡」みたいににこやかな顔して平和的に別れを告げたすぐ後で、


「Pさんってさぁ、自分がX大学出身っていうこと鼻にかけてて、いちいち学生時代の話持ち出してきて、ちょームカつく!旦那もT大出だって、自慢気に言ってたよ〜。」 
[※実はこれ、以前ランチした時にPさんを追い詰めて無理矢理引き出した情報なのだが、ここは自分を悪者にしないためにもしれっと脚色。かくしてプチ嘘は生まれる。]


...なんて具合に、周囲の女子軍団にネガキャン(ネガティブキャンペーン)しまくる腹黒ママとか腹黒同僚。
あなたの周りにもいるでしょ。きっと。


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こういう「プチ嘘」は、「プチ」でも何でもない、れっきとした嘘。
「プチ」なんて矮小化するような言葉で飾るべきではないよね。


どうも日本人って、欧米のキリスト教文化と比較してみると、「嘘をつくことは罪である」との意識があまり強くない民族なのかもしれない。
一神教文明に特有の「神は 見ていらっしゃる」という視点が欠けている上、その神に代わって「他人の目」「世間」がもっぱら幅をきかせる、という、よく考えてみると 「何だかな〜」な状態がわれわれの社会ではずっとデフォルトとされてきた。


「バレなきゃいいんだ」式の嘘や偽装工作がはびこりやすい社会、と言える。


物事の判断基準を「他人の目」「世間」に頼る、ということは、その他人やら世間やらが全体的に劣化していけば、自分も一緒に劣化していく、ということを意味する。


 最近の芸能人や政治家のズレまくった言動をワイドショーなどで見て、
「あ、有名人もこういうことしてるんだ。だったら、自分がやっても何ら問題は無いよね?」
といったおかしな勘違いをする人たちも、実際に増えているのかもしれない。
それは善か、それは悪か、と、冷静に自問自答できる人が減りつつある、ということでもある。


1980年代にビートたけしが放った「赤信号、みんなで渡れば怖くない」。
あれって、昔も今も変わらない日本社会が持つ病(=個々人における、罪意識の希薄さ)のど真ん中をグサッと突いたスゴい一言だったんだなあ、と今更ながらたけしさんの才能には脱帽だ。



そうした悪しきベクトルをググッと逆方向へと向けていくのは、なかなか骨の折れる仕事となりそう。
キリスト教やイスラム教社会のように、道徳的・宗教的な縛りもこれといって無いし、われわれの祖父母の世代が聞いていたような「閻魔様に舌を抜かれる」との説を真に受ける人もほとんどいないのが、今の日本だから。
こんな調子では、ますます「嘘つくのはダメ!」という良心の声が通りにくい社会になっていくのではないだろうか。
そうなると、自分に甘く、自分を憐れみ、都合悪いことは全部自分の外へと丸投げする【自己愛人間(ナルシシスト)】がうじゃうじゃと増殖してくるのも、まぁ、当然と言ったら当然なのかもしれない。




同じ間違いを犯したとしても、


「こんなの大したことないさ」と現実から目をそらし、結果的に自分を甘やかす。

「過ちを犯したのは事実。でも、大切なのは立ち直ってからどういう生き方をするか、だ。前へ進もう。」と、自らの非を認めた上で自分に許しを与える。


甘やかしと、許し。
一見、似たもの同士のようではある。
だが、両者を隔てる溝はグランドキャニオンよりも長く、そして、深い。



自分の責任を全く認めようとしない前者と、責任逃れをしないで後始末をきちっとしようとする後者。
この二つをごちゃ混ぜにしてしまう人間たちが、現代のアメリカをはじめとした豊かな西側諸国にはあまりにも多すぎる。
特に「ニューエイジ」「スピリチュアル系」「精神世界」「ヒーリング」と称される業界やコミュニティに吸い寄せられるような人々にその傾向が強く見られる。
キャロライン・メイスはそう指摘する。

くぅーーーーっ、耳が痛いぜぃ...。


さて、そろそろ残るCD3枚分に戻ろう、っと。

キャロラインおばちゃんにビシバシ叱咤激励されて来るとしましょうかね。
ちょっとやそっとでヘタっているわけにはいかないのですよ。
良薬は口に苦し、です。
(あらまぁ、実はドMだったのか、私は!)