アンデルジェフスキー(ピョートル)
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今日は3月3日、ひな祭りの日でした。
前回取り上げたインタビューで彼自身が語っていたように、長期休暇に入る前の最後のコンサート@NY・リンカーンセンターが予定されている日だったんですね。
Twitterで、会場に行った人の感想をいくつか拾った限りでは、素晴らしい公演だった模様。
アンコールもたっぷり25分、と、大盤振る舞いだったようです。
正月休みの前の歳末売り尽くしセールのような...
なんて書き方したら、熱心なファンの人に怒られちゃうかな。
#PiotrAnderszewski gave 25 minutes of encores tonight at #alicetullyhall @lincolncenter tonight. It was incredible!— Eric M. Gewirtz (@ericgewiz) 2016年3月4日
Concert at Alice Tully tonight with Piotr Anderszewski every bit as special as I'd hoped and imagined. Not sold out but very appreciative.— Ann H. Logan (@abycats) 2016年3月4日
ああ、良かった〜。
3月4日付ニューヨークタイムズ紙のレビューでも、大変好意的な書き方をされていました。
芸術の神様は、やはり彼をお見捨てにはならなかった!
ありがたや、ありがたや。
実はですね、前回の写真&インタビューに続き、FacebookのHumans of New York上にはもう一枚、写真が掲載されたんですよ。その、二番目の写真(下の画像をご参照ください)に添えられた発言の中で、彼、"autistic"(自閉的な、自閉症の)という言葉を使ったんですね。
それをネガティブな意味合いでとらえ、「自閉症を持つ子供や大人に対して、侮辱的な表現だ。見逃すわけにはいかない。」と憤慨する人が次々と出てきてしまいました。
で、Facebookのコメント欄はまたたく間に大炎上。
“Pleasing people is a huge drive. Any artist who tells you otherwise is either selfish or autistic. Art is a...
Posted by Humans of New York on 2016年3月1日
「人を喜ばせたい、という気持ちはものすごく大きな原動力となる。『いや、違う』と言う芸術家がいれば、その人は自己中心的か、それかもしくは自閉的(autistic)な芸術家のどちらかだろうね。
芸術はコミュニケーションなんだ。お客さんに聴きに来てほしいという強い願いと、芸術家としての誠実さ。 この二つは十分に両立し得るよ。僕はそう思う。
人前で演奏するというのは、ひとつの奇跡だよ。 演奏する側は、目の前にいる聴衆がどんな人々かなんて、全くわからない。 それでもやはり、僕ら芸術家と、聴衆と、200年も前に曲を書いた作曲家との三者の間には、霊的な交感(communion)が生じるんだ。
Copyright: mab0440 / 123RF Stock Photo |
音なんてのは、ぶっちゃけ、どうでもいい。音それ自体が重要、というわけではないから。唯一、音だけが作曲家にコミュニケーションの手段として与えられていた。ただ、それだけのこと。
むしろ大切なのは、音と音との間。
そして音の背後に存在する「何か」だよ。
僕の仕事は、ピアニストとしてそうした部分を解釈すること。なぜ、この作曲家はこの音をこの場所に置いたんだろう?それが知りたかったら、音が出る直前の「一瞬」を理解しなければならない。もし、うまく行けば...つまり、作曲家が生きていた200年前の時代にさかのぼり、その人間性とうまくつながることができれば、一人で演奏しているときですら、聴衆の前で演奏する時と同じように、霊的な交感状態を味わうことができるんだ。」
(翻訳・筆者)
いかがです?
才気あふれる彼らしく、普段使いの語彙だけ使って、「芸術=コミュニケーション」との自説を見事に展開している、って思えませんか。
何百年もの時間の経過や、観客席と舞台という空間的距離によって隔てられているにもかかわらず、みんなのたましいが一つに合わさる、という【奇跡】は起こる。それこそが音楽の力なんだ...と。
(あ、あかん。もう、完全に惚れてもうた...。ひょえ〜。)
筆者には若い頃、自分の不注意で大失敗を招いてしまい、ひどく落ち込んでいた一時期があります。
その時、闇の中から私をすくい上げてくれたのは、バロック音楽、特にJ.S. バッハの音楽(と、坂口安吾、宮沢賢治の作品群)でした。
いわゆる「洋楽」、すなわち英米のロック&ポップミュージックばかり聴き、「クラシックなんて、フン。」とまるで相手にしていなかった私。
あの頃初めて真剣に聴き込んだバッハの音楽は、そんな私を変えました。
「希望はある。だから、もう一度立ち上がれ。歩き出せ。」と、偉大なるバッハ父さんに背中を押してもらったのです。
あの時受けた感動、今でも忘れられません。出会えたことに感謝しています。
そうした体験をした者のひとりとして、上のアンデルシェフスキの見解には心から共感できるんですよ。
「芸術は時空を超えた霊的レベルでの交感体験」であり、「ひとつの奇跡」である。
全く、その通りだと思います。
(「目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声/Wachet auf, ruft uns die Stimme」BWV140。アーノンクール指揮の古楽器使用バージョンが好きです。それにしても、仏像尽くしの動画、最高ですね。バッハなのに。最後には鎌倉の大仏様も!)
残念なことに、最初の方に出てきた"autistic"(自閉的)という言葉で気分を害した人々、相当数いたようです。怒りに駆られてなのか、はたまた炎上騒ぎに便乗してなのか、よくわかりませんが、罵倒する言葉だけ残し、「書き逃げ」する、といった品の無い投稿者も多数現れました。
こういうSNS(ソーシャルネットワークサービス)で繰り広げられる集団リンチ風景って、不愉快です。怒りを通り越して、むなしささえ覚えます。
ネット上での酷いバッシングを延々と見せつけられたこともあって、ここ数日間、私はピョートル君(同年代だから「君」付けでいいや。)のことが案じられてなりませんでした。
大切な節目となる3日のコンサートなのに、精神的に不安定になったらどうするんだろう。道行く人々や、心無い聴衆から無神経な言葉なんてかけられたら、どうするんだろう...って。
列車生活のあのドキュメンタリー映画(前回記事をご参照ください)を見て以来、ずっと好印象を抱いていた音楽家だったので、「どうかこの難局を無事に切り抜けられますように...。」と祈らずにはいられなかったのです。
HONY(ヒューマンズ・オブ・ニューヨーク)の取材に快く応じ、写真・インタビューの掲載にOKしただけなのに、思わぬストレスを背負い込んでしまったとあっては、こんな悲しいことはありません。
だから、静かに神様仏様観音様に祈り続けました。彼が音楽に、コンサートに集中できるよう、公演がうまく行くよう、助けてあげてください、力をお貸しください...って。
(たとえそれが大海の一滴ほどの力にしかならないとしても...。)
まぁ、既に書きましたように、全ては杞憂だったようですね。一安心しました。
これでひとまず今季のソロ・コンサート日程は全て終了ですね。
本当に、本当に、お疲れさま。
休暇、ゆっくりと楽しんできてください。
大好きな日本食、ぜひぜひ食べに行ってください。
以下、私がこの件について走り書きした、ひとり言ノートからの抜粋です。(ま、多少は手直しもしましたけどね。)「クソ長い〜」なんて文句言う人、どうぞ他所へいらしてください。ひ・と・り・ご・と、ってちゃんと言いましたからっ。(キッパリ!)
お時間にゆとりのある、ボランティア精神にあふれたお方だけ、お立ち寄りください。
演奏者であり、自ら作曲もする芸術家・ピョートル・アンデルシェフスキがHONYのカメラマン・ブランドン・スタントンとの会話で伝えたかったこと。 私自身はよく理解できるし、大いに評価し、拍手を送りたいと思う。 autistic(自閉的)という単語にしても、決してネガティブな意味合いで使ったわけではないだろうし、ましてや、そうした症状と日々暮らしている人々を侮辱するつもりなど微塵も無かっただろう、と、信じたい。
アンデルシェフスキ自身は、<自分の方から敢えて他人に向けてコミュニケーションを発信しようとする気持ちが薄い人><外へはたらきかけようという意欲の希薄な人>といったニュートラルな意味でこのautistic(自閉的)という言葉を使ったのだ、と思う。
多分、"living in one's own world with little desire to communicate with others"(自分だけの小さな世界に住み、他者とコミュニケートしたいという欲求をほとんど持たないままに。) とか、"indifferent to the world outside"(外の世界に関心を持たずに)という感じの人物像をイメージしていたんじゃないかな。
(なぜか今、私の脳裏にはグレン・グールドの姿がちらほらと浮かんでは消え...笑。)
その一方で、彼の言葉を読んだ一部の人(特に、身内に自閉症の人がいたり、自分自身がそのように診断されている人。)が感情的に反応するのを抑えられなかった、というのも、また、理解できる。
うちが長年、家族ぐるみでお付き合いしているご一家にも、もう随分と大きくなった自閉症のお子さんがいる。お母さんも、お父さんも、頭が下がるほど献身的に子育てに取り組んでいて、お子さんのことを大切に守っていて、その美しい姿には胸を打たれずにはいられない。(遠くにお住まいなので、何一つお力にはなれないのだが。)
世間の偏見をこれ以上助長させてはならぬ、という使命感をお持ちになるのはご家族やお身内の方々にしてみれば当然だろう。「関係者として、これは聞き捨てならない」という趣旨の投稿も、数多く見られた。
「演奏家と聴衆とのコミュニケーションを論じるのに、何も【自閉的autistic】という単語を使わなくったっていいじゃないか、他にもふさわしい言葉はあるだろうに」と抗議したくもなるだろう。
確かに、彼の発言、受け取り方によっては、「自閉的 ≒ 自己中心的」とも読み取られかねない文脈だ。(そこまで意地悪く取らなくても、と、私は思うけど。)愛する人々/自分自身の自閉症/自閉的症状そのものが侮辱されたように感じ、カーっと来た人が次々にコメントを寄せ、どんどん話がエスカレートしていってしまった。
ある程度の論争が起きるのは、まぁ、仕方がないことだ。いずれの側の言い分にも、一理あるのだから。
だが、バッシングが過熱し過ぎて、だんだんと「言葉狩り」の様相を呈してくると、こちらとしても見ていて辛い。たかが一枚の写真、そしてその被写体のピアニストの男性が街角で声をかけられ、心の準備も下書き原稿も無く、率直に思いの丈を語っただけじゃないか。それに対して、バカだのアホだのに相当する罵り言葉が飛び交ったのは、いくらなんでも行き過ぎであった。
炎上し過ぎて、煙が立ち込めて、事態の本質が見えなくなっている。
ピーク時はそんな状態だった。
あと、これは「外国人」「英語ノンネイティブ」として英語圏に十五年以上暮らしてきた私の推測なんだけど。
ピョートル・アンデルシェフスキという人がどれほど海外生活が長かろうが、語学に堪能だろうが、ポーランド/ハンガリー系の両親を持ち、両方の国の言葉で育ったわけで、彼にとっての英語は所詮、外国語に過ぎない。
(2002年、と随分昔の映像です。若いっ。私も24番が一番好き!)
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(彼はフランスで教育を受けた期間が長いせいか、英語よりもフランス語の方がはるかに得意でしょう。例のドキュメンタリー映画でも、バイオリニストである実のお姉さんと二重奏する場面ではポーランド語ではなく、もっぱらフランス語での会話でした。音楽話だとその方が手っ取り早いのかも。)
どんなに英語学習歴が長くっても、相当のおしゃべり好きであっても、母国語っていうのは脳を動かすOSみたいなもので、意識しなくても「バックグラウンドでちゃんと仕事している」んじゃないかな。 だから、誰でも、基本的に母国語ボキャブラリーを使って世界を切り取り、解釈し、理解する...という作業を行っていると思う。
(...少なくとも、私自身はそうだけどなぁ。)
ここからは全くの仮説。東欧の言葉については、知識ゼロだ、とお断りしておく。
ポーランド語やハンガリー語で”autistic”に相当する言葉って、ひょっとしたら英単語のautisticよりもずっとカジュアルな感じで、「外界との意思疎通をやりたがらない」程度の意味で使われることがあるのかもしれない。
たとえば、80年代に日本で流行った「ほとんどビョーキ」の「ビョーキ」みたいに。
特定の症状を抱えて病んでいるとか、身体が壊れているとか、じゃない。それよりもっとライトに、「何か変だよ」程度の性質を前にした時に出るのが、カタカナ言葉の「ビョーキ」だ。
(言ってましたよね、80年代の私たち。大して深い意味もなく。「あのさー、☆☆子ってば、もう、ビョーキだよ、ビョーキ。代々木の歩行者天国の露店で◯✕◯✕(男性アイドル)の生写真とかサイン色紙とか、1万円分も買ったってよ。しかも、ファンクラブにまで入って、ロゴ入りグッズまで集め始めたんだよ。大丈夫かなぁ、あの子!」)
もし、彼がその程度の軽さでもって autistic(自閉的)という言葉を選んだだけだとしたら?反対者達はこれにどう応えるだろう。悪気などこれっぽっちも無く、外国人ゆえに細かな言葉のニュアンスにまで配慮が行き届かなかったただけ、だとしたら。
それでも彼は叩かれねばならないのだろうか。
大体において、人の言葉尻をつかまえて脊髄反射的に反撃すると、ろくでもない結果にしかならない。それが世の常人の常、ってものだ。 たとえば、先の「ビョーキ」だけど、言われた方が「何だと!私は病気なんかじゃない、全くもって失礼な!!!」といった具合にいちいちプンスカしてたら、行き着く先はケンカと断絶。以後、話は平行線。大抵の場合、そうなる。
もう少しだけ、聞き手が話し手の真意を探ろうとする努力をしていれば、そして話し手が聞き手の側に受け取りやすい言い回しを使っていれば、 理解と共感が生まれたかもしれない。さらに上の次元へと、対話の質を高められたかもしれない。もったいない。
今回のアンデルシェフスキ・Facebook炎上騒ぎでは、いろいろと「ことば」について考えさせられた。
まずは、「あなたのAという単語は、相手にとってはBかもしれないし、QやZかもしれない」ということ。
一つの言葉の定義がある集団と別の集団、ある文化圏とある文化圏との間で、大きく異なってくる場合がある。 その言葉が、人々の中にある種の感情を煽り立てるような、デリケートな言葉となると、取り扱いに関しては慎重に慎重を期さねばならない。うっかり地雷を踏まないためにも。
それから、インターネットという超高速メディアに言葉を委ねる際には、ある程度の反発や誹謗中傷を覚悟でやれよ、ってこと。100%の人を満足させるのなんて、絶対無理。100%の人からほめてもらおうなんて、絶対無理。 世の中には何でもかんでもケチ付けたがる変な奴が大勢いる。
それに、自分では良かれと思って放った言葉でも、受け手の中に全く予想外の反応を引き起こすことがある。(これは何もネットでのやり取りに限ったことではないけれど。) そうした言葉は、一旦自分の手を離れてしまうと、性質が変化していき、仕舞いには巨大なバケモノとなって、自分の方へとブーメランのように戻ってくる。しかも、幸か不幸か、事態の進展するスピードはネット時代の今では秒速・分速レベル。不意打ちを食らって倒れないよう、よく覚えておかないと。
あと、もう一つ。
公の場に出る人、世間の注目を集めている人って、ほんとうに大変な境遇の中で生きているんだな〜、晒されているストレスの量も、ハンパじゃないんだろうな〜、ってこと。改めてよくわかった。
われわれのように名もない一庶民には想像もつかないような、苛酷きわまりない一種のジャングルの中に彼らは生きている。なるほど、確かに元々は自らが好き好んで入っていった世界、ではある。かそけき賞賛の声がここかしこで上がっていても、さしたる理由も無いのに敢えてバッシング陣営に加わるような人々の方が、人数的にはずっと多い。そうした人々の叫び声に負けて、賞賛の言葉がいとも簡単にかき消され、うやむやになってしまうような、そんな無慈悲な世界で生きなければならないなんて。
いくら何でも気の毒すぎる。それが、日々のたゆまぬ精進と、長時間の投資に対して、彼らが受け取るリターンなのだとしたら。
誰かを傷つけたり、怒らせたりしないような言葉を丁寧に選びながらも、自分の真意をクリアーに伝えられるような書き手になれたらいいなあ、と思う。そのためには、ひたすら休まずに練習するしかないだろうね。
スポーツや楽器と同じで。「おっ!なかなかきわどい表現だけど、どうにかうまく切り抜けられたね。」と、読む人にわかってもらえるような、そういう言葉の運用能力をを磨いていくしかない。昨日よりも今日、今日よりも明日...と、少しずつ階段を上るように、自らの能力を高めていくしかないのだ。
ただ、言葉選びに過度に神経質を尖らせてばかりいるのも、それはそれで困りもの。
四六時中、セルフ検閲強化中!みたいなモードに陥ってしまうと、遊びと正直さとが抜け落ちた、味の無い、安物シリアルみたいな文章になってしまう。それじゃまるで、「いい子ちゃん」が、内申点を意識しながら学校に提出する課題作文みたいな文章だ。そういう"politically correct"(政治的に正しい)文章だったら、無料媒体・有料媒体問わず、世界中に有り余ってるよ。もうこれ以上増やす必要は無い。
自由奔放さと節度との、絶妙なバランス。
誰にとっても、どんなシチュエーションでも、人間としての生を続けていく限りはずっと抱えていかなきゃいけない課題なんだろうね。
こんにちは!
返信削除今年も3月になりましたね~1か月があっという間です。
何かを発言するのは、責任が伴うので炎上も仕方がないのですが、
>それをネガティブな意味合いでとらえ、
>「自閉症を持つ子供や大人に対して、侮辱的な表現だ。見逃すわけにはいかない。」
>と憤慨する人が次々と出てきてしまいました。
身近な人が自閉症やそのような症状を持った人が居れば、
立腹する理由もわかります
が
そうゆう意味で言ったんじゃないですよね
侮辱的な発言だ!と思うなら
自分もそのことを侮辱的に思っていることと同じなんじゃないかな~
○○症だからとかは全く思わないです~
健常者だとしても歳とれば頑固にもなってくるし
生まれながらの性格もあるし
それも個性(オリジナル)の一部ですよね。
一語一句にいちいち癇癪持ってたら一日中穏やかで居られない 笑
世間の色々な事例を見ていると
みんなイライラしてるんだな~ 喧嘩したいんだな と思ってしまいます
問題提起と思って、表現しただけ。
多分、芸術家だから鋭い言い方だったんでしょうね
政治家なら絶対使わない言葉でしょう。
でもその言葉を使わなかったら話題になることも
考えさせられることも、無かった。
『気づくこと』ってキツイものですよね。
何も発しないのもどうかと思うので
勇気を持っていたいです☆
T Ichiさん、こんにちは!ご無沙汰しています。コメント、ありがとうございます!
削除本当に時間の経つ速さが尋常じゃないですね。振り落とされそうですよ〜。
今回は怒涛のように長文書いてしまったんですけど、全部読んでくださったなんて。感謝です!
>>身近な人が自閉症やそのような症状を持った人が居れば、
>>立腹する理由もわかります
>>が
>>そうゆう意味で言ったんじゃないですよね
>>侮辱的な発言だ!と思うなら
>>自分もそのことを侮辱的に思っていることと同じなんじゃないかな~
そこなんですよ!
Facebookのコメント欄でも、「言われたから即言い返す」という人々がいる一方で、「子供/家族/自分が実際自閉症なのだけど」と断った上で、「そのとらえ方は理解できるし、的を射た表現だと思う」と冷静な意見を寄せている人もたくさんいたんです。
そういう人々は、「自閉症」というひとつの特徴に対し、たとえば「髪の毛の色は黒です」「乱視混じりの近眼です」「乾燥肌です」といった感じのとらえ方で、良い・悪いといった価値判断と切り離すことがちゃんとできているんですよね。
確かに普通、とは言えないかも。
だからと言って、それに何か問題あるの?
...このように考えている人の意見には、賛成・反対は別として、「なるほどな」と参考になる部分が多かったです。
激しく反発してきた人々の心の奥には(T Ichiさんのおっしゃるように)、「自閉症があるから、普通と違うから、人よりも下に見られるんだ」という信念が棲みついているのかも。心ない人々に嫌なことを言われたことがあって、そういう信念が強化されてしまったのかもしれません。お気の毒なことです。
自閉だから下に見られる...決して、決して、そう思わないでいただきたいですよね。
確かに普通、とはあまり重ならないかもしれません。
不便、なら多少感じることもあるでしょう。(知人ご一家と一緒に旅行して、よくわかりました。)
この世は結局、最大派閥の「普通」に都合良く作られていますからね。
でも、「普通」って、一体いつから「人間の、望ましい姿」になったのでしょうね?
「普通じゃないから」と言って、一つ、また一つ...と自分たちと違う個性を弾きだしていく、普通至上主義。
ヒトラーとナチスドイツが行った「普通から外れた奴は殺す」というむちゃくちゃな理由をつけて強制収容所政策へ送る、という最悪の政策に行ってしまうのなんて、あっという間ですよ。現に、今のマスメディアでは「外れた奴等」がどんどん存在を消されていますから。別世界の、他人事なんかじゃないですよ。
普通至上主義、私は嫌いです。
どんどん廃れてくれればいい。とすら思います。
T Ichiさんも同意してくださると思いますが。
(長いので分けますね!)
T Ichiさんへの返信、続きです。
削除>>○○症だからとかは全く思わないです~
そう思う方って、少数派ですよね。(←これでもかなり盛った表現。)
私、この発言の主であるアンデルシェフスキさんという人物について知れば知るほど、彼は間違いなく(T Ichiさんのように。)偏見0%に限りなく近いところから「自閉的 autistic 」という言葉を発したのだ、と日々確信が強まる一方なんですよ。
素晴らしく知的で、ご自分や音楽に誠実に向き合いつつ、常識の枠外に飛び出すことを恐れないこの方に、私、完全に脳内マツケンサンバ状態です。やばいです。
>>健常者だとしても歳とれば頑固にもなってくるし
>>生まれながらの性格もあるし
>>それも個性(オリジナル)の一部ですよね。
そうそう。先日、記事を仕上げた後で、思ったんですよ。
人、特に女性は「自分の血を分けた子供」「自分が生んだ子供」が何らかの先天的な課題を持って生まれてきた時に、特に敏感に反応しますよね。
それはわかるんです。「あの時、あんな食生活をしなければ...」「酒量を控えていれば...」といった後悔とつい、関連付けたくなりますからね。
でも、ふと疑問に思ったんです。
これが自分の年老いた両親だったら、果たして同じように反応しますかね?
認知症の症状が進み、いわゆる「普通」ではない言動が目立ってきた老親に対し、「子供である自分にも責任があったのか?」なんて後ろめたさを持つ人なんて...あまりいなさそうですよね。ゼロ、とは言いませんが。
「血を分けた子供」「産んだ子供」となると、その子独自の「個性」という宝が後ろに引っ込んでしまいがちです。子供の性質は、長所も欠点も含めて自分の延長/一部、子供への批判は私への批判、ってつい思いたくなる親の数、ハンパなく多いですよね。(そういう親に限って、子供とケンカすると「産んでやったんだ」といった高圧的な態度に出る...って気がするのは、私だけ?)
同じDNAを持つ老親に対しては、「認知症は子供である私にも原因がある」なんて思わないはずなのに。
人間って面白いですよね。
>>世間の色々な事例を見ていると
>>みんなイライラしてるんだな~ 喧嘩したいんだな と思ってしまいます
ネットでの炎上騒ぎ、多過ぎていちいち数えるのも嫌になりますし、電車の中でも不機嫌そうな人、多いですよね。日本に帰るたび、「何て笑顔の無い国だろう」とうんざりすることがあります。(もっとも、そういう私も、日本で動き回っているうちに、いつしか周囲と同化して無表情な仏頂面の人になっていくのが自分でわかるんですけど...。ぼーっとしていると、つい、周りの周波数に合わせてしまいます。)
自分と他人との境界線(バウンダリー)が曖昧だと、いろいろなことが自分への非難・攻撃のように聞こえるんでしょうね。(「何でも個人的に受け取るな」とよく言われていた経験者の私だからこそ、わかるっ。)
で、ちょっとした刺激でも「痛い痛い痛いっ!!!」と過剰反応しちゃう。
「痛いっ!」が人によっては「ムカッ!」「イラッ!」という出方をする。
そういう人が増えれば増えるほど、社会は不安定に、不穏になるでしょう。
自分作りって、大事ですよ。周囲の周波数にいつも合わせているような、受け身な人にとってはすごく抵抗があるでしょうけど。
でも、抵抗に逆らってでもやるだけの価値はあると思います。やらなきゃ後でそのつけが回ってくるんじゃないですかね。
若いころから「自分」という輪郭のはっきりした、中身のギュッと詰まった一つの彫刻作品に取り組み、生涯にわたって改善すべきところを見つけては、削ったり磨いたりといった微調整を続けていく。
こういう作業に興味が無いまま年だけ取っていくと、「不満だらけの不幸せな大人/年寄り」になっていくのは確実かなぁ、と思いますね。
そんな大人達ばかりの国・社会に安らぎとか、余裕とかって、生まれるんでしょうか。
若い人達の方が敏感に社会の危なさをキャッチしていると思うんですよ。
上の世代の悪しき洗礼など真似せず、洗脳されたりせず、新しい生き方を追求して欲しいなと、願わずにはいられませんね。
>>問題提起と思って、表現しただけ。
>>多分、芸術家だから鋭い言い方だったんでしょうね
>>政治家なら絶対使わない言葉でしょう。
彼のその潔さ、正直さが、もうたまらな(以下、強制的にカット)
...失礼しました。いかんいかん、自制、自制...。(;´Д`)ハァハァ
またもや長々としゃべくってしまいました。
これから桜の季節になりますね。猛スピードで過ぎ去る時間にもめげず、一つ一つを楽しんで行きましょうね〜!
また近いうちにお話しできる機会を楽しみにしています〜!
ありがとうございました。