2016/02/16

続・異端は痛い

前回の「異端は痛い」で紹介した3段階の力について、もう少し書いておくとしよう。自分用の、覚え書き。


「危機に反応するのに、私たちは、

 集団[Tribal =部族の...筆者注。以下同様。]、

個人[Individual]、

象徴視点[Symbolic]

という三つの力を、自分が身につけた順に使っていく。
歴史的にも、個人としても、これはまったく同じプロセスだ。」


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(キャロライン・メイス 「チャクラで生きる」[原題:Why People Don't Heal and How They Can] 川瀬勝 訳、サンマーク出版、2000、p.142)


文庫本もあります。Kindle化して欲しいんだけどなぁ...。

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たとえば、一家の大黒柱であるお父さんが、突然交通事故に遭った、とする。
幸い一命は取り留めたものの、長期間のリハビリが必要な状態となってしまい、そこそこのポジションまで上がっていた会社を辞めねばならなくなってしまった。
苦しくなる一方の家計を支えるために、お母さんはフルタイムで働きに出なければならない。
子供たちも好きな習い事をやめなければならない。
こんな時、家族は一体どういう反応に出るか。
おそらく、


「一体なぜ、私たちがこんな目に」


という、やり場の無い怒りを込めた問いを繰り返すのみ、だろう。
自己憐憫や、怒りが転化してのうつ状態に陥ることも予想される。
無理もない。
足元の地面がガラガラと崩れていくような状況下で、正気を保っていられる人など、ほとんどいないのだから。



だが、いつまでも恨み節ばかり繰り返しているわけにはいかない。事は起きてしまったのだ。
「どうしてこんな目に?」
「どうして、他の人にではなく、自分に?」
と問いかけるだけのレベルをいつかは脱していく必要がある。
さもないと、同族集団から「かわいそうな犠牲者」との烙印を押され、それが定着してしまう。



(他人の不幸は蜜の味...って、いや〜な言葉ですよね。まさにこの、不健全な集団/同族意識のダークサイドそのものですよ。
「あんたたち、そのまんま不幸でいいよ。
成長しなくて、幸せになんなくていいよ。
惨めなまんまでぐるぐる下の方徘徊してたらいいさ。
そうすれば、我々が脅威を感じることなんてないからね〜!」
...上に行こうとする人の足を引っ張ろうとする集団/同族意識、上手にスルーしたいもんです。)



ある程度の期間は「喪の悲しみ」をとことん味わうというのも必要だろう。
これが、いわゆる「魂の闇夜」(Dark Night of the Soul)と呼ばれる、出口の見えない長い長いトンネルのような苦しい期間。
いつ終わるのか。
そもそも本当に終わる日が来るのか。
当事者にすら、
全くわからない。


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(キャロライン・メイス流の「魂の闇夜」論です。超おすすめ。)


やがて、多くの人はこのような自問自答の無限ループに巻き込まれる。


「自分は、この災難を自ら招き寄せたのだろうか?」
「今までの人生で、何か原因となるような罪を犯しただろうか?」


たった一人の被告人、すなわち自分ばかりをつい、責めがちなこの時期。
心身の健康が損なわれやすく、非常に注意が必要とされる。
神仏、もしくはそれに相当する「聖なる存在」の助けが得られないと、苦しみは長く、耐え難くなるばかりだ。


メイスは更に続ける。
(引用中の「病気」という語は、より広義に「危機的状況」と拡大解釈できるだろう。)


「病気という危機が、低いほうのチャクラを通して同族意識に浸透したあと、それは徐々に個人の心へと入っていく。


この移行は重大であるとともに、大きな怖れを伴うものだ。
 


なぜなら、同族意識のレベルで考え、行動しているうちは、私たちの体験も集団の支援を受けることができるからである。
 

しかし、それが個人の精神の領域へと入り、心理的、感情的な反応を引き起こすとき、
 

私たちは自分だけでやっていかなければならない。
 

明日はどんなことに直面しなければならないのか思いめぐらせながら、夜中にベッドに横たわる自分にささやきかけてくる恐れを黙らせることは誰にもできないのだ。」
(前掲書、p.143)


全くもってその通り。
人間は、本来、社会的動物として生きるようにプログラミングされた生き物。
ゆえに、「自分だけでやっていく」というのは実にコワい状況なのだ。



前回書いたように、物質中心・拝金主義にどっぷりと漬かり、神仏などの【聖なる存在】からすっかり遠ざかってしまった日本人・日本社会についていけないな、と感じることが年々増えてきた。
そろそろ同族(集団)意識の呪文から解放されて、「一人で歩いていこうかな...。」と思い始めたところ、意外にもそこにはまず、


「こわい」


という感情が浮かび上がってきた。
こわくないはずがない。「もう枠の外に出たんだから、応援も支えもあげませんよー」って、冷たく宣告されたも同然なのだから。



さて。
災難が起きてから時間も経ち、衝撃も次第に和らいでくると、少しずつ、動いていこうという気力も湧いてくる。
変わらずにはいられない。
それが世の常、人の常...というものである。



思う存分嘆いて、怒って、鬱屈した気持ちを何らかの形で表現し、外に出しきった時には、きっと「魂の闇夜」というトンネルも終点間近なはずだ。
次の課題が少しずつ、姿をあらわす。



いよいよ象徴レベルの力を発動させる段階へやって来た。



そう。
無事、集団/同族レベルの意識(第一段階)から離脱し、
恐れに立ち向かいながら、個人の力だけを頼って旅することができるようになる(第二段階)と、
次は象徴レベルの力の使い方を習得することとなる。
神仏=「聖なる存在」が身近に感じられ、直接(聖職者やチャネラーなどの「仲介者」無しに。)の交信も夢ではない、という段階へとやって来たのだ。


ここまでたどり着けた人には、



俯瞰的な視野


(Copyright: olgacov / 123RF Stock Photo


という、人生を生きていく上で非常にありがたい贈り物が用意されている。
俯瞰的視野、という言葉がピンと来なければ、「近視眼的な物の見方から、パーーーッ!!!と視野が大きく開けること」と言い換えてもいい。



英語に"bird's eye view"(鳥瞰図)という表現があるが、鳥さんの目線でなく、神様・仏様レベルの聖なる存在目線から見た、生命の営みが、つまらぬ個人のこだわりや私利私欲抜きですっきりと、パノラマ画像で見えてくる...ってことだろう。



自分に起きた「不幸」が、実は不幸の形をまとった最大級の幸運であった、とはじめて気付くのも、この段階においてである。



先の交通事故に遭ったお父さんの一家、その後どうなったか少しだけ見てみよう。
力を合わせて苦しいトンネルをくぐり抜けた後、家族の運命は大きく変わっていった。


まず、お父さん。
自身のリハビリ経験を通じて「癒やしと健康」の分野に非常に興味を持つようになった。
一念発起し、数年間専門学校でみっちり学び、国家試験を経た後に鍼灸師として独立。
会社時代に培った幅広い人脈に助けられて、鍼灸院の経営もどうにか軌道に乗り始めたようだ。


次に、お母さん。
ずっと専業主婦だったが、知人の紹介で不動産会社の事務職として勤務。もともと、住まいの分野には興味があったので、次第に宅建の資格を取って収入アップしたい、と、欲が出てきた。通信講座や専門学校の集中講座などを利用し、数年がかりで難関の宅地建物取引士試験に合格し、給料も上がる。細やかな心遣いで、女性客やファミリー客からのご指名もしょっちゅう。


お姉ちゃん。
音大のピアノ科進学を目指していたものの、レッスン代の捻出が難しくなり、断念。その代わり、高校の音楽の先生のすすめで地元国立大学の音楽教育科を受けた。合格後は、週末や夜間にアマチュア合唱団の伴奏ピアニストも務めるようになる。コンクールで賞を取ることばかり考えて突っ走っていた以前より、音楽をもっともっと愛せるようになった気がする。一人で弾いていた時よりも、みんなで音楽を作っていく喜びが味わえて、うれしい。


弟。
私大付属の中高一貫校に通い始めたばかりだったが、やむなく公立校へと転校。居心地は良くなかった。ところが、高校では体育系の部活でまさかの大活躍。毎日が楽しい。
前の学校では裕福な家庭の子が多く、肩身が狭かったが、今の公立高校ではそのようなことは無い。アルバイトも経験した。
自分たちよりもはるかに大変な思いをしている友人の姿を見て、社会の厳しい現実を学んだ。
現在、法学部を目指して受験勉強中。将来は弁護士になりたい。


※以上の話は全てフィクションです。モデルなんていませんよ。※



まぁね。
上の架空の一家の物語は「めでたし、めでたし」と無難にまとめてしまったものの、実際、そこまでうまい具合に展開するかどうか。極めて怪しい。
もし、これが我が家に起こったら、どうなるか。



...どうでしょうねぇ。想像もつかない。



だから、考えても、心配しても、妄想しても、しょうがないわけで。
そんなことしている暇があったら、動け!働け!汗、流せ!でしょ。
で、ひたすら愚直に


「日々の営みは決して無駄にならない。前進は前進。」


と自分に言い聞かせながら歩いていくしかない、と思う。




野望やら、期待(という隠れ蓑をまとった、俗世臭がぷんぷんする「欲望」)なんて、忘れちゃえ。
そんなものは、邪魔くさい同族(集団)意識と一緒に故郷の土地に預けていこう。


旅、特に一人気ままにする旅は、身軽に行くのが一番ですからね。




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前回の記事で商品リンクを貼った下のオーディオブックなんですが、私が面白いと感じた箇所、短いですが翻訳してみました。


メイスがいかにして「カトリック」という狭い同族社会の縛りから一歩外に出て、より高い視点から宗教というものを捉え直すことができた、という経験談が語られています。
興味のある方がいれば(←たぶんいないよ...笑。)、と思いまして...。



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【※対談中の略称ですが、

キャロライン・メイス=CM(Caroline Myss)

タミ・サイモン=TS
(Tami Simon:CDの発行元であるSounds True社の創業者で、名インタビュアー。仏教・瞑想に詳しい。)

で表記します。】


TS: 同族レベルの力の縛りから抜け出して、一つ上の段階、つまり個人レベルの力へと移行した、とのお話をされましたよね。もう少し具体的に、ご自身の体験を踏まえて語ってもらえませんか?


CM: 元々、私は筋金入りのカトリック教徒でした。最近では、そこまで堅苦しくない、「キリストの教えに従う者」といった立場へと変わって行きましたけど。


そのような経歴を持つ私がですね、キリスト教以外の宗教...仏教をゼロから「学ぶ」機会がありましてね。
...まぁ、「学ぶ」っていう言い方をするのも変なのですが。だって、宗教とは、ある伝統の枠組の中で「祈る」もの、でしょう?「祈る」か、「祈らない」かのどっちか一つ。「学ぶ」ではない。
歴史的な事実を「学ぶ」ことだって、まぁ、不可能とは言えないものの、そのようなアプローチでは「霊的な力を得る」なんて、どだい無理というものです。


とにかく、当時の私は「何らかの『霊験を得る』ことを目指す、ひとつの伝統」として仏教をとらえ、純粋に研究しようとしていました。
内心では、「仏教なんて、ホンモノの教えじゃないんだし、霊的パワーなんてあるわけないじゃない」と高をくくっていたのですね。


Copyright: kongsky / 123RF Stock Photo


ところが、仏教を学ぶにつれて、それが変わっていったのです。学べば学ぶほど、その教えに強く惹きつけられていく自分に気が付いたんですね。
「あっ、まずい。こんなに仏教のことを好きになってしまったなんて。」
...まるで自分が仏教と霊的に不義密通を犯しているようで、後ろめたい気持ちでした。



私は生まれも育ちも生粋のカトリックなんです。
それまでずっとキリスト教一筋で来ました。
ですから、何としても仏教に惹かれてはいけない、これ以上関わると身の破滅だ。そんな思いで七転八倒しましたね。



結局、最後には流れに逆らうのを諦めました。
で、仏教が説く「非執着(detachment)」「全てが幻想」という真理、そして豊潤な伝統の中に思い切って飛び込んでみたんですね。
すると、最高に気持ち良かった。


かくして、私は[仏教という]新たな力を自分の人生に取り入れることとなりました。
それに伴い、私の内面世界でキリスト教が果たしていた役割も、変わらずにはいられませんでした。
「パワーシフト」が起きたのですよ、自分の中で。
私の内面の構成要素がすっかり変わってしまいました。


あれは大きな転換点だったように思います。

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