2016/02/08

異端は痛い

「神なき国」となり果てて久しい、21世紀の日本。



この国で「何はさておき、神仏と共に、神仏だけを求めて生きる」ような人間は、はっきり言って【異端】という烙印を押されてしまい、よそ者扱いされてしまう、と思う。
残念ながら。


神。
仏。
聖なる存在。




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そんな単語、うっかり口に出そうものなら、サーーーッと周囲から人が引いていく。
「大学程度以上の教育を受けて、学齢期の子供がいて、そこそこ良いお父さんお母さんしていて...」といった、ごくフツーの中産階級日本人のオトナであれば、こんなところが典型的な反応だろう。


彼ら、特に30-40代の母親と呼ばれる女性群(今、こうした人達と接触する機会が多いもんで...。)が何よりも恐れていること、それは


【異端者】という烙印を押されること





【集団意識/グループ・シンクからの追放】という厳罰。


ではないだろうか。




【異端者】とは必要以上に関わり合いにならない方が身のため、である。
自分も同類とみなされて、慣れ親しんだ集団から追放されかねないから。







私は、異国の地に住んで久しい。早いもので、今年で通算17年目を迎えた。
ゆえに、故郷との物理的接点は少ない。
(まぁ、毎年1回は里帰りしているのは、恵まれている方だと思う。)




元々、こちらに移り住む、という運命は自分の意思で選んだ。
それでも、年々薄れつつある昔馴染みとのつながりや、里帰り時に味わう「居場所の無さ感」「お客さん感」には、やはり一抹の寂しさを覚えずにはいられない。
物理的に「流刑者」である私が、この上「精神的な村八分」の刑にまで処せられてしまったとしたら、どうなるのか。




そりゃ、辛すぎる。

正真正銘の根無し草決定、なんて、そう安々と認めたくはない。
心はこんなに日本へと向かってやまない、というのに。



(遠い昔、ブラジルに移民した日系一世・二世には、亡くなるまでずっと日本への愛郷心を強く持ち続けていた方が多かった、とどこかで聞いたことがある。
くーーーっ、わかるな〜、その気持ち。
どんなにこっちが恋い焦がれても、遠い祖国から返ってくるのはつれない態度ばかり。
要するに、「片思い」ってことだね。)




そう。
年々強まっていく自分の【異端者】【はずれ者】的傾向。
最後の最後まで認めたくなかった。




それでも、抑えきれなかったのは、「霊性から完全に切り離されてしまった、今の日本の在り方には馴染めない。」という、正直な気持ち。
神仏=聖なる存在と切り離された生活 イコール 日本人らしい生活、ならば、そんなものは欲しくない。
日本的でない、とそしられても構わない。
【聖なる力】を否定し続けて生きるわけには、もういかない。
このことを潔く認めるだけの勇気、どうしても奮い起こせずにいた。




かと言って、故郷/日本という部族との最後のつながりを自らぶった切る。これもまた、やりたくはなかった。
どっちへ行ったら良いのか自分でもわからなくなってしまって、それでしばらくの間足踏み状態が続いていたのだろうな。



いわゆる日本での「売れ線」「人気」「社会の動向」が気になって仕方がない理由も、これで説明がつく。
日本という「同族集団」から、置いてきぼりにされ、切り捨てられるのがものすごく嫌だったからだ。




自分も、日本社会の片隅にしがみつきながら、一緒に時代を旅していたかった。
日本という、程よい大きさで旨味もたっぷりな、世界でも他に類を見ない独特の閉じた同族社会に所属している、守られている、と感じていたかった。
仲間がたくさんいる、という幻想にすがっていたかった。



同族社会は、老若男女、その中にいる人々のことは基本的に守ってくれるもの。確かに、そのメリットは大きい。

だが、私は心の自由という宝を明け渡さねばならない、という負の側面には目をつぶっていた。
そして、



「大丈夫。まだ追放されていないから。
あなたは今でも『日本社会』という同族集団の一員ですよ。」




という、甘い慰めの言葉で自分をごまかし、前へ一歩踏み出すことをずるずると引き延ばしにしていた。




さて。
もう、目をつぶり、逃げ惑うのはおしまいとしよう。




そしてひとりの【異端者】として、自分だけの道を切り拓くことを選ぼう。




同族集団が共有する価値観から自由になるために、勇気をもって次の一歩を踏み出す時期が来たようだ。



神仏の大いなる導きの前に身を低くし、その道具となって黙々と働こう。
おのれの真実に嘘をつくことなく、正直に生きよう。




そして、集団思考という足かせから自由になるというプロセスを楽しみながら、自分を慈しむことをゆっくりと、ていねいに学んでいこう。





キャロライン・メイスによれば、私たちを内面から突き動かす力には3つのレベルがあるという。



人が一生のうちにどこまで到達できるかは、それぞれの意思・資質次第。
ただ、いやしくも「俗世間に生きる神秘家(mystics without monastery=直訳:修道院を持たない神秘家)」の道を歩もうと決意した者であれば、3番目のレベルにまで到達することが必須条件となるだろう。
一生(もしくはそれ以上)をかけて取り組まなければならない難事業ではあるけれど。

1.同族レベルでの力(いわゆる「集団思考/グループ・シンクgroup think」からの教育/洗脳にどっぷり漬かっている状態。守られているため心地良いのは確かだが、その人独自の個性は育たない) 

2.個人レベルでの力(同族集団=生まれ育った集団から拒絶されるというリスクを冒してでも、自分という人間にとっての真理を追求できるようになる)  

3.象徴レベルでの力(宗教、神話、聖なる存在…等々からのメッセージをダイレクトに受け取り、それに従い、「神の道具」たる自覚を持って行動できるようになる)


とりあえず、今の目標はレベル1からレベル2へと意識的に(居眠りしながら、ではなく。)移行すること、かな。
決して楽な作業ではない。どこまで上がれるのかも、わからない。
でも、一度乗りかかった舟だ。
途中で放り出すわけにはいかない。




Three Levels of Power
Three Levels of Power
posted with amazlet at 16.02.08
Sounds True (2010-04-14)




(前半は聴衆を前にしての講演、後半はSoundsTrue社CEOのタミ・サイモン女史によるインタビューとなっています。中身、特濃!!!ですよ。)

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