2016/04/30

じわじわ来た。エディ・ヴァン・ヘイレンが語る、「わが半生」。

ヴァン・ヘイレンは好きなバンドのひとつ。
Van Halen The Studio Albums 1978-84


中でも一番のお気に入りはデイヴ(デイヴィッド)・リー・ロス David Lee Roth。

なので、以前、楽天ブログでこんな記事を書いたこともあります。


2013.01.18
「私が愛したバカロック」  
http://plaza.rakuten.co.jp/backtotheessence/diary/201301180000/

2013.04.10
「デイヴ・リー・ロスが目の前の自販機で...」
http://plaza.rakuten.co.jp/backtotheessence/diary/201304100000/

(物騒な絵ですみません。デイヴと、仲良しのコニちゃん=小錦八十吉さん共演の図。英語字幕にするとまともに見えるセリフも、実は...。 
音楽は「仁義なき戦い」ですね。 おぉ、本記事一番最後に登場する菅原文太さんへと見事つながったじゃないの。)


当時彼は東京に「住人」として長期滞在していて、上野や横浜方面などにもちょくちょく足を伸ばしていたそうです。今はどうだか知りませんが。
いや~、一度街中で見てみたかった。


そして、こちら。
変なタイトルのせいでわかりにくくなっていますが、こちらは

デイヴ・リー・ロス(ヴァン・ヘイレン)



ビリー・ジョエル



エアロスミス

という、何とも不思議な組み合わせの動画にツッコミ入れてみた記事でした。
2013年、オーストラリアで開催された大規模ロックフェスティバルに先立っての記者会見だったそうです。




2013.04.19「ん~、シュールレアリズム。」
http://plaza.rakuten.co.jp/backtotheessence/diary/201304190000/


楽天ブログに埋め込んだ動画は消されてしまいましたが、幸い代わりとなるものがまだありました!





ぜひご注目いただきたいのが、こちらの動画、5:38からの部分。←クリックするとそちらに飛びます。旧ブログではこんな風に書きました。

女性記者が、スティーヴン・タイラーのふさふさとゴージャスな頭髪をさかんにほめまくっていたところ、


向かって一番左のビリー・ジョエルが、おもむろに野球帽を取り、光り輝くスキンヘッドをあらわに。会場一同、大爆笑。


女性記者、「あぁ、ごめんなさい、ビリー。ごめんなさい...」と、恐縮しまくり。


この時のビリーの隣のデイヴ・リー・ロスのコテコテリアクション、マスターカードじゃないけど、「プライスレス(priceless)」ですねぇ~!昭和臭さがもう、最高っ☆

で、ようやく本題に入ります。


正直な話、ダイヤモンド☆デイヴのこういう(日本人ではまずあり得ない)桁外れな野獣っぷり



(イントロ部分、終了してしまった関ジャニの番組で使われてましたよね。)




(おっと危ない、誰でもテレビで一度は聴いたことがある、こちら↑の大ヒット曲も入れとかないと!)


に頭をぶん殴られたような衝撃を受け、ヴァン・ヘイレンに入ってしまった私にとって、エディ(=エドワード)・ヴァン・ヘイレンの存在ってそれ程大きくありませんでした。「たのきん」時代からファンだった野村”ヨッちゃん”義男さまとキャラクターがかぶっているので、ずっと親近感+尊敬の念は抱いていましたけれどね。



野村義男が弾いて教える 「10日間 エレキギター塾」



(←こういう事書くと、エディを崇拝する世界中のギターキッズ&元・ギターキッズから「ふざけんな!」と言われそう...。
でも、日本が誇る実力派ギタリスト・ヨッちゃんとの比較ならば、ご本人だって快く許してくれると思いますよ。
ええ。ヨッちゃんの事を悪く言うような奴は、断じて私が許しません。)


それでも、今回、こちらのスミソニアン博物館群のひとつ、アメリカ歴史博物館(アメリカ・ワシントンD.C.)が主催したエディ・ヴァン・ヘイレンのギタートークに出会って以来、「やはり、ヴァン・ヘイレンはヴァン・ヘイレン兄弟があってこそのバンドなんだな。」と認識を改めざるを得ませんでしたね。
何でも、今回のトーク(2015年2月)は、彼がカスタマイズされたギター・「Frankenstein 2」を博物館に寄贈したことを記念して企画された公開イベントだったそうです。






抽選に当たって入場できた人、嬉しかっただろうなあ。
会場の愛あふれた盛り上がりぶりが全てを物語ります。


(エディ・ヴァン・ヘイレンなんて知らない、と思っている人も、マイケル・ジャクソンの大ヒット曲・「ビート・イット/Beat It」の特徴的なギターの音だったら覚えているのでは?あれを弾いているのが、エディなんです。)


彼の生い立ちから、ヴァン・ヘイレンの成功、そして現在に至るまでの長い道のり。
音楽を通じて固い絆で結ばれている家族への思い。
実にいい話でした。
何せ1時間近いインタビューですので、「抄訳」というか、特に印象に残った部分をピックアップするにとどめました。


ギター改造の話や、よく見もしないで英国仕様のマーシャルアンプ(英と米では電圧が違うんですね)を手に入れてしまい、でかい音を出すためにいろいろ試行錯誤する話もありましたが、専門用語がよくわからないので敢えてスルーしてしまいました。
そうしたテクニカルな方面に興味がある方は、英語ページになりますが、こちらの「Q and A with Eddie Van Halen」(博物館スタッフとのEメールによる一問一答)を併せてお読みくだされば幸いです。

http://www.smithsonianmag.com/arts-culture/q-and-a-with-eddie-van-halen-159357298/?no-ist


下は、G+記事に最初に書いた下書き的文章です。
(こちらのリンクからどうぞ。)
https://plus.google.com/107117837862700567166/posts/WT2ANX8xGGe




これ、最近見たYouTube動画の中ではベスト3に入れたい名作。
いつも超絶技巧テクニックをニコニコ笑顔で披露しているとの印象が強かったエディの人間的な側面をたっぷりと伺い知ることができた。じーんと来る話もたくさん聞けた。

動画の背景にも掲げられているが、今回、トークのテーマとして設定されているのは、"What it means to be American" (アメリカ人になる/アメリカ人であることは、どういう意味を持つのか) 。 そのためか、移民として両親とアメリカにやって来たヴァン・ヘイレン兄弟の幼い頃の苦労話にもスポットが当てられていた。 結果として、ギターおたくやハードロックファン以外の人でも楽しめる素晴らしいインタビューへと仕上がっている。

【以下、私がキャッチした内容をざっとまとめてみた。】

ヴァン・ヘイレン兄弟の父親は、クラシック音楽の教育を受けたプロのクラリネット奏者で、サキソフォンもプレイした人。オランダ人。母親はインドネシア人。

ジャズのビッグバンドの一員として世界中を演奏旅行で回っていた父親。当時オランダの統治下にあったインドネシアで後の妻となる女性に出会い、二人は結婚。 アレックスとエディが幼い頃、一家はオランダに住んでいた。

両親はとにかく音楽が大好き。エディが小学生の時、一家でオランダから船でアメリカに移住したのだが、その時もわずかな現金とピアノ一台を引っ越し荷物として運んできたほど。9日間に及ぶ船の旅では、父親が船上バンドで演奏をし(一家の船賃はそれでチャラにしてもらった。)、小さなヴァン・ヘイレン兄弟もちょっとした演奏を披露しては船客の人気者となった。
©2012 VHND.com


彼らはロサンゼルス近郊のパサディナに居を定める。 
アメリカに来て間もないころ、父親はフリーメイソンの集会所(エディは「寺院temple」と呼んでいたが)で用務員、皿洗い、母親は家政婦、と仕事をいくつもかけもちして一家の生計を支える。

たった一間にベッドがひとつだけ、と、生活は貧しかったけれど、家族の食卓にはいつも音楽があった。鍋釜叩いたり、歌ったり...といった具合に。そのうち父親が周辺地域の音楽家(多くは彼らと同じような移民)と知り合いになり、週末や夜にジャズバンドで演奏する機会も増えてきた。

両親、とくに母親の熱心な導きにより、エディ・ヴァン・ヘイレンと兄アレックスは、中学生になる頃まではクラシックピアノに打ち込む。 母親の勘で、「この子達も、父親の背中を見ていつかきっと音楽の道へと進むはず」と思っていたらしい。やがて兄弟はピアノコンクールに出まくっては揃って上位入賞を果たすようになった。ご本人達は、「もうだめだよ、帰ろうよ。」と、自分らの腕前にそれほど自信を持っていなかったようだが、父親はいつも「いやいや、最後まで待て。必ず残るから。」と、二人の好成績を疑いもしなかった。

ピアノを習って5年。なのに、エディときたら、全く楽譜が読めない...。

先生が弾いてくれるお手本の指の動きと、耳コピでもって曲を覚えてしまうため、長い間その事を隠し通せていたらしい。
ところがある日、先生に譜めくりを頼まれたエディは、ページをめくらねばならない場所で何もしなかったため、先生に問い詰められる。「おい、どうしてちゃんとめくってくれないんだ?」
遂にエディは白状。「先生、僕、楽譜読めないんです。」 

エディ曰く、実はこの「楽譜が読めない」というハンデ、暗譜での演奏が絶対条件であるコンクールに出る際には逆に強みとなったそうだ。後年、彼がギターに転向した時も、楽譜の読み書きがダメだったおかげで、独自の記譜法や作曲法を編み出すという思わぬ副産物がもたらされた。伝統的な音楽のルールに縛られず、自由でいられたのだ、という。


ティーンエイジャーになる頃にロックに出会い、兄弟は即、クラシック音楽から乗り換えた。
ビートルズや、デイヴ・クラーク・ファイヴが最初のお気に入り。
最初はエディがドラム、兄がギターを選ぶ。だが、兄にドラムをやらせたところ、「自分よりもはるかにうまい」ことにショックを受ける。渋々ながら負けを認めたエディは、ドラムを兄に譲り、代わりに兄のギターを手に入れた。
もし、アレックスがそのままドラムへ転向していなければ、EVH伝説も生まれていなかった。「ああなる運命だったんだよ」と、彼は言う。

 憧れのミュージシャンは?との問いに、「父。」と即答してから、「クリーム時代のエリック・クラプトン。」 と付け足す。それ以降の音楽には興味を失い、「あまり他の人の音楽は聴かないんだ。」とも告白。愛車ランボルギーニ・ミウラのエンジン音を聴くのが快楽だ、とも。 
(そうした彼の「エンジン音フェチ」が、車をテーマにした1984年のヒット曲「パナマ」を生み出したことは想像に難くない。)




(あ!そういえば、先日の記事で紹介した【浪花のエディ・ヴァン・ヘイレン】、SATSUMA3042さんを紹介した記事http://backtotheessencenow.blogspot.com/2016/04/blog-post.html に貼り付けた動画も、この「パナマ」でしたっけ。大好きな曲なもんで...ハイ。)


友人二人を加えてヴァン・ヘイレンとしての活動を始めるが、最初の7年間は本当に鳴かず飛ばず。
「誰かの裏庭パーティーでも、高校のダンスパーティーでも、生演奏の機会があれば、どんな所へでも出かけて行った。手作りのチラシを作っては、高校のロッカーに放り込んで行く、ということもやっていた。デモテープを送っては却下され、ライブハウス巡りをし...。レコード会社との契約に漕ぎ着けるまで、7年間は売れない日々が続いた。」 
(本当にやりたいことがあるなら、簡単に諦めちゃいけないね。当時のヴァン・ヘイレンのメンバー4人は"We didn't take NO for an answer."(「ダメだ」なんて答え、俺たちには通用しない!)という態度で毎日ステージをこなしていたそうだ。人生訓、見つけた。)

好きな音楽がメンバー間で全然違う。
兄・アレックスはストレートなロック、デイヴはディスコミュージック好き(笑!)...といった具合に。
 
(さすがデイヴだ。)

(父親から受け継いだ教えで、息子さんに伝えたいものは?という問いに。)「人間はあらゆる人から学ぶことができる。特に、『やっちゃいけないこと』に関しては、他人をしっかりと見て学べ。うっかり間違えてしまった時は、もう一回やって、そしてニッコリ笑え!(そうすれば誰にも咎められないから。)」

奥さんと離婚し、ガンとも闘い、一時期は酒浸りの自暴自棄な生活を送るようになっていたエディ。
だが、そんな彼を最終的に救ってくれたのは、ヴァン・ヘイレンの正式なメンバーとなった息子・ウォルフィー(ウォルフガング)の存在であった。彼が一緒にプレイするから、彼のために立ち直って頑張ろう、と、断酒やリハビリにも前向きに取り組めた、という。

(オリジナルメンバーのマイケル・アンソニーには大変申し訳ないんだけど、世界はまだエディを失うわけにいかないんだよ。ウォルフィーが傍にいてくれて、エディの支えとなってくれて、本当に良かった。ごめん、マイケル。)

(会場にいた子供からの、「アメリカにやって来て、一番最初の登校日はどんなでしたか?」という質問に)
「怖いなんてもんじゃなかったよ。だから、嫌でも強くなるしかなかった。鍛えられたよ。アメリカに移り住んだ頃は、英語もろくに喋れなかったし、母親がアジア系ということもあって、いじめにも遭った。いじめる奴らは決まって白人の子供ばかり。宿題の紙をビリビリに破ったり、校庭の砂をかけてきたり。
そんな僕をかばって、体を張って助けてくれたのは、例外なく黒人の友達だった。だから、最初に仲良くなったのは黒人の子ばかりだったんだ。」

(「故人となったミュージシャンのうち、共演できるとしたら誰がいい?」との問いに。)
「父だね。もう一度、家族でジャムセッションしてみたい。」




(うん、覚えてますよ!このクラリネットの音色。「ダイヴァー・ダウン」は、私が初めて買ったVHのLPレコードでしたから。クラリネット演奏は兄弟の父・ヤン・ヴァン・ヘイレン。デイヴもノリノリで、家族的なあたたかさが漂う一曲に仕上がってますね。)

(「長いこと音楽をやって来て、どうやって創造力を絶やさずにいられるんですか?」という問いに)
「演奏し続けるしかない。音楽家という人種は、死ぬまでプレイし続けるものなんだ。65になったから引退、なんてあり得ない。」

(ちなみに、エディは今年の1月で61歳。)

(「もし、もう一度最初っから何か楽器をやるとしたら、何を選びますか?」の問いに。)
「ドラムかな。」(一同、笑。)
 
「アレックスはギター。で、ゆくゆくは交換する、と。」





「世界には既に音楽が溢れているけど いつ、どんな時であれ、新しい音楽の入り込む余地は必ずや残されている。」

ーーーエディ・ヴァン・ヘイレン





ついでにこちらもおまけで。
菅原文太さん、晩年の筋の通った政治的発言が本当にかっこよかったなあ。
もっと長生きして、思考停止状態になっている今の日本人に喝を入れていただきたかった。
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/10/08/kiji/20201008s00041000036000c.html


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