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2017/01/26

【閑話】人はみな、それぞれの物語を背負って今ここに。【休題】

Facebookで禅についての話をしていた時、ふとこのセリフを思い出した。
もう9年前になるのかあ。




「あなたと違うんです!」

誰もが密かに心の中で一度や二度はつぶやいたことのある一言を、つい、ポロッとマイクの前で出してしまった福田元首相。
記者団の質問についカチンと来て、うっかり本音が漏れたのだろう。


みんな、当時はさかんにこれを笑い、呆れた口調で語っていたけど、実は「他人事じゃないな。場合が場合なら、自分だってやりかねない。」という複雑な思いで見ていた人も多いのではないかな。
少なくとも、私はそうだった。
あの手のゴーマンかましちゃいました発言、脳内では昔から今の今に至るまで結構頻繁にやっているように思う。
ただ、口に出して人前では言わないだけだ。罪深さは同じである。


「覚醒」

「マスターからの瞑想伝授」


「チャネリング能力が花開く」

といった甘い言葉に釣られて、不当に高い金をぽんぽん払っちゃうような消費者が後で泣くのは、ある程度仕方ないこと。自業自得だ。
今回だけは授業料だと思って諦め、次はもうちょっと考えてから、必要とあらば信頼できる人の意見を聞いてから、事を起こすようにすればいい。
(金が余って余って使い道に困る?だったら、ご自由にどうぞ~。)



でも、何でそういうビジネスに引っ掛かるか、と考えたら、全ての根っこにはこの


「あなたと違うんです」

を外の世界にアピールしてくれるような《何か》



を求めずにはいられない、という人間のしぶとい欲望があるせいだ、思う。



みんな、人より頭ひとつ分出たくって、自分のことを差別化したくってたまらないのだ。


それは、最近流行りの言葉を使うと、「マウンティング mounting」せずにはいられない、という欲望にも簡単につながる。
見栄っ張りの女性集団、例えばちょっと競争心の強い幼稚園ママ友グループなんかではしょっちゅう見られる光景らしい。
おお、こわ。


【参考記事: 
日経WOMAN「女性同士のイヤな感じ、正体は「マウンティング」 】


この「あなたと違うんです」とつい言っちゃう/思っちゃう、本能的な衝動。



どうやったら、コントロールできるんだろう。
どうやったら、湧き上がらないようにできるんだろう。
どうやったら、「他人と比較する」ことをやめられるんだろう...。



しばし考えて、今、ヒントらしきものがふと浮かんだ。



車なんて基本的にちゃんと動いて、燃費が良くて、目的地まで安全に行って帰って来れれば100点満点。そう私は考えている。
今乗っているのは、8年前に買った日産の小型ハッチバックで、まさに100点満点の車。だから、買い換える予定なんて無い。最後の最後まで大切にするつもり。



車へのこだわりなんてゼロ、の人間だから、誰がベンツに乗ろうが、BMWに乗ろうが、革張りシートの最上級グレードの車に乗ろうが、
「ああ、車が好きで、そこにお金をかけたい人なんだな。」
って思うだけ。
値段なんてぜ~んぜん気にならない。というか、よくわからない(笑)。
これまでの数少ない経験から、高級車のシートは確かに乗り心地抜群、と知っている。長時間ドライブをよくする人だったら、身体への負担を考え、たとえ多少高価であってもどうしても上位車種が欲しい、と考えるのも理解できる。



あるいは、その人か、その人のパートナーがその特定の車種に若い頃からずっと憧れていたのかも。
今、ようやく金銭的にも余裕が出るようになり、遂に購入へと踏み切ったのかもしれない。めでたく夢をかなえたわけだ。
勝ち組と見られたいから、ベンツに乗る...なんて薄っぺらい人ばかりじゃないのだよ、世の中は。


それなりの理由があるから、
今こうなっている。


一つ一つの選択の背後には、
その人だけが知る、
その人なりの理由がちゃんとある。



そう。この、「選択ノ背後ニ理由アリ」という部分に思いを馳せるだけの想像力を奮い起こすことが、今、私たちに強く求められているんだと思う。



表面に出ている現象だけを見て、

「なにあの人、金持ちぶっちゃって。」
「だんなさんが医者だからって鼻にかけてんじゃないわよ。」
「○○大学出たのに、その程度の会社に勤めてるの?」
「(タワーマンションの)2階? 安いからそこしか買えなかったんでしょ?」


と言い放ってしまう人の内側では、次のような流れが起こっているはず。

「人と自分との浅薄な比較

--->気に食わない『異物』、発見

--->脊髄反射 
(何も考えない。本能だけでガバッと動く。)

--->「あぁ、ムカつく!」「凹ませてやりたい!」


脊髄反射とは、本能そのまま、原始動物時代から受け継がれてきた部分が丸出しといった感じでとっさに出てしまう反応のこと。
高度に発達した生き物(人間のような。)にのみ与えられたすばらしい才能である「想像力」と共存共栄させていくのは、なかなか難しいかもしれない。
どちらか一方に偏らねばならないのだったら、より洗練され、より有益なはたらきだと誰もが認める【想像力】を選ぶべき。
本能そのままに敵意むき出しな生き方をしていては、心安らぐ人間関係なんて築けるわけがないのだから、いつか必ず行き詰まる。


上に挙げたような一連の脊髄反射のパターンが対人関係の中ですぐに出てきちゃうような人々、あなたの周囲にいないだろうか。
もし、思い当たる誰かがいるのなら、その人(たち)からは勇気をもって距離を置くようにした方がいいだろうね。
時間も、エネルギーも、その人(たち)には知らず知らずのうちに随分と吸い取られているはずだから。


一人になるのは怖い。
その気持ちはよくわかる。(かつての私自身がそうだった。)
でも、時間泥棒・エネルギー泥棒同然の人達から離れることができれば、自分ひとりで過ごす時間という素晴らしいごほうびが手に入るのだ。
その時間を使って、「これがあるから生きていける」「これがあれば幸せ!」と言えるような興味・関心事、もしくは打ち込める仕事を探せばいいじゃないか。
その方が、どれだけ身も心も豊かな気持ちになれるかわからない。


長いようで短い人生。
どうせ一緒に過ごすなら、「良い人でありたい。今日はイマイチでも、明日こそは良くなりたい。」との心掛けで生きている人と過ごした方が、得られる喜びが大きいのだから。
もし、今その場所で、そのような人が見当たらないのであれば、「まぁいいさ。縁があればそのうち出会うだろう。」とどっかり構えて、そして一人でなきゃできない何かに打ち込めばいい。
本、音楽、映画、美術、工芸、写真、釣り、スポーツ、ヨガ、山歩き、寺社巡り、下町散策...など、一人で自由に動き回れるからこそ楽しめる何かを探しに行こう。
他人がいても、いなくても、自力で幸せの種を見つけられる人になろう。


ひとつの集団がどっぷりと浸かっている無意識の悪癖は、薬物中毒にどこか似ている。
自分一人が「よし、手を切るぞ。二度とやるもんか。」と頑張ったところで、また「ね~、行っちゃうのぉ~?もうちょっと一緒にいようよ~。」と後ろから引き留められると、つい、ズルズルと付き合ってしまうからね。なかなか断ち切るのが大変。
朱に交われば赤くなる。昔の中国の人はうまいこと言ったもんだ。


「あいつ、気に食わない」となったら、たちまち悪口大会が始まり、その人のことを「共通の敵」へと仕立て上げて、自分たちは「共犯者」としての結束を固める...。
そんなことに時間も、エネルギーも費やして、面白い?
そんな話ばっかりして、幸せ?
モヤモヤするばかりの人間関係なんて、切っちゃえ。スルッと逃げちゃえ。
(悪口は、お口もお顔も心も歪みます♪しかも年取ったら直したくってももう直りません!)


もし、そういった「仲間」と距離を置いた後も、自分ひとりでいて、誰かの行動を見た瞬間に心がざわざわっと騒ぎ、即、脊髄反射だっ!って流れに飲み込まれそうになったら、まさにチャンス到来、だ。
自分を鍛えて、よりまっとうになるための絶好のトレーニングの機会がやって来た、ととらえればいい。


で、

「目の前にいる人のこの行動も、
それなりの理由があってしたこと。
背後には何らかの物語が、ある。
表に見えている材料だけで、即、決め付けないにしよう。」


と、言い聞かせるといいよね。何度も、何度も、繰り返して。


「どんな人の背後にも、物語がある。
なぜその人が今あんな風なのかにも、理由がある。
誰かをこき下ろしたくなったら、そのことを考えてごらん。」



そういう訓練を人知れず繰り返すように努める人が一人でも、二人でも増えていけば、私たちが生きる社会も少しずつ変わっていくかもしれない。



...まぁ、それが簡単に出来るようなら、世の中っはとっくの昔にもっと平和になっているはずだけどさ。
(そもそも私自身が全然できてないもの。
だから、こうして文章に記すことで自分に暗示をかけているのだ。「もうやるなよ!」って自戒の念で書いてるんですよ。)



私のエニアグラムの師匠である故ドン・リソ(ドン・リチャード・リソ)先生が、来日された時、教え子にアドバイスを求められ、こうおっしゃったそうだ。



【反応(reaction)】に気を付けなさい。


【過去記事:ドン・リソさんの夢〜「置かれた場所で咲きます」宣言 】
http://backtotheessencenow.blogspot.com/2016/08/blog-post.html 


...何も考えずにバババッ!と口から出してしまう、或いは心の中でつぶやいてしまう脊髄反射的なひとこと。
これでもって人生を狂わせてしまわないよう、気をつけなければ。


とっても難しいことなんだけどね...。何度も言うけど。


心と頭をクールダウンして、まっとうな思考の働きを活発に保っておきたいのなら、やはり瞑想、坐禅のような身体を巻き込んでの訓練を日頃から地道にやっていくしかないんだろうな。

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せっかく詳しい方に推薦していただいたのに、中古本のお値段がた、高い...。復刊されないかなあ。


ヨガの後にやる瞑想だと、どうも自己流に陥ってしまっていけない。

妙なスピリチュアル・ファンタジー系(内容ですか?まぁ、その、スピリットガイドとか、ハイヤーセルフとか、守護天使とか、そっち系統ですよ。あぁ言っちまったよ。恥ずかし~。)に走ってしまいがちで、こんなんでは非常にまずいと思い始めている。
何とかならないかなあ。
変な癖、無くしたいんだけど、一人ではなかなか...。


アメリカ人のやってる禅センターも近くにあることはあるんだけど、うーん、何だかなぁ、って感じ。
(当地の禅センターには日本人のお坊さんは常駐していない。サンフランシスコのような大都市じゃないからね。)

あんなに豊かな漢字の世界、シンプルだけど実に味わい深い仏教用語の世界を知っている日本人が、わざわざ英単語で禅を説明される、ということに物凄く抵抗がある。

Satori(サットォーリィ←"r"の音が効いた発音で。)なんて言葉を耳にするの、やだもん。
(だったら、インドから来たヨガを白人系アメリカ人の先生に教わっていることについてはどう説明するんだ。←自分でツッコミ入れてみる。)


去年は時間が無くて諦めたけど、次に日本に帰った時は、必ずどこかの坐禅会に行くぞ!
(継続して行ければベストなのだが、海外在住者ではそりゃ無理というものだ。)


臨済宗・黄檗宗の坐禅会情報:
http://www.rinnou.net/cont_02/zen_info.html


曹洞宗の坐禅会情報:
http://www.sotozen-net.or.jp/searchsystem_zazen


憧れの方・P.A.様も、数年前の長期休養中には京都の禅寺で坐禅なさったんですものね。新作、今からとっても楽しみです。


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新作、遂に2月17日発売です。予約受付中!
モーツァルトとシューマンの「ファンタジア(幻想曲)」集。
シューマンの方はシーモアさんが映画のラストで弾いた、あの第三番も入っています。

...それにしても、なんと素敵なお姿なのでしょう...。(*゚∀゚)=3ハァハァ.

(もし、坐禅会に行って、こういう方が隣にいらっしゃたら、もう、鼻血ブー・心臓バコバコ状態で、とても坐禅どころじゃなくなると思うな~。警策...きょうさく...でひっきりなしにビシッ!バシッ!と打ってもらわないことには、1時間持たないかもしれない...。  
これから先、いつかどこかでP.A.様にお目にかかれる機会に恵まれるのであれば、坐禅道場やヨガの教室以外の場所がいいかなー。 ←この不届者。一体何を期待してやがる。

※ちなみに、私が2015年の夏に参加した曹洞宗大本山・總持寺の坐禅会では、「手を上げて合図した希望者のみビシッ!」でしたよ。 なので、怖がり屋さんでも安心して参加できます。
總持寺HP 参禅のご案内http://sojiji.jp/zenen/sanpai/sanzenkai.html )


福田さんの「あなたとは違うんです」を何度も聞いていたら、なぜか突然このヴィンテージなCMを思い出してしまった。
ああ、昭和。





福田さん、あの突然の辞任会見以降、ほとんど政治の表舞台に出られなくなってしまったような気がする。今思うに、「あなたと違うんです」のあの一言って、このCMの「コレ(小指)」級の破壊力があったな。後世に残る名ぜりふだった。

2016/09/18

疎遠になってしまった「友達」。後悔したって仕方がない。

これ、「ちょっといい話」として読まれたがっている記事なんだろうけど...。



言わんとしていることは、わかる。
身近な人の死を経験したことのある人、何らかの形で生と死について考えた経験のある人であれば、おおむね共感できる内容だろう。


文中に出てくるナース(看護師)は、ブロニー・ウェアさんというオーストラリアの方。
記事中では明記されていないが、2012年にHay House(*注)から単行本も出されているそうな。
あ〜、道理で、イギリスのThe Guardian紙などでも大きく取り上げられていたわけだ。

【参考記事】 Top five regrets of the dying  (02/01/2012 The Guardian)

いわゆる「ステマ」、つまり巷で盛り上がっているというイメージを演出するための「ステルス・マーケティング」の一環だったのか。
Hay Houseという出版社がいかにも好みそうな売り出し方だ。

*注:Hay House/ヘイハウス=玉石混交のニューエイジ・スピリチュアル系に力を入れている、新興の大手出版社。アメリカ版サン◯ーク出版ってところかな。あられもない派手な宣伝の仕方とか、大げさなキャッチコピーとか、猛プッシュする作家や本の選び方とか、「双子か?」って言いたくなるほど、似通ってます。
(...ちなみに、私が幾度も取り上げているキャロライン・メイス(Caroline Myss)は、Hay Houseとサン○ークの両方から本/オーディオブック出してますがね。怪しさ倍増じゃん...。)
 創業者は、自らも数多くの自己啓発本を執筆していることで知られるルイーズ・L. ヘイ。 


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しかも、その年の暮れには、日本語版も出ている。それも、新潮社という、これまた大手出版社から。
早っ!!!


(上の洋書版唯一の五つ星カスタマーレビュー、明らかに日本語版関係者の手による「宣伝文句」ですね。ホント、コウイウノ、ヤメテホシイ...。
書く方も書く方だけど、内容が全然伝わらないようなやらせレビューをレビューとして放置するAmazonさんの姿勢もどんなもんかな〜、と思う。)


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記事の中で、一箇所だけ引っ掛かりを感じたところがあった。
それは、




「4. 友達をもっと大切にして、
連絡をとっておけばよかった」



の部分。



「連絡をとっておけばよかった」と死ぬ段になって悔やまれるような付き合いレベルの「友達」、ねぇ...。



あのー、そういう過去のつながりしかない人のことを【友達】と呼ぶ癖、いい加減にやめてはいかがでしょう?
で、

【昔の知り合い】
【古い知人】
【以前、親しかった人】


にワンランク格下げ、でOKってことにしませんか。
断捨離、断捨離。



知り合いになった人は誰でも彼でも特Aランクの【友達】というカテゴリに突っ込み、後生大事にキープしておく。
音信不通となって久しいにもかかわらず、【友達 or not? 】と自問する嫌な作業は先延ばし。
そうこうしているうちに、「あの時、自分から連絡していれば...」と、楽しかった過去の日々を思い出しては、後悔ばかりが繰り返される、という悪循環に陥る...。




私だけが一人で叫んでもしょうがないか。
では、ちょっとこの辺でドクネットでつながっているスペシャルなドクター...じゃなかった、エリザベス朝イングランドの演劇界を代表する大御所劇作家であり、人間観察マイスターとしても知られるシェイクスピア先生にも聞いてみるとしよう。


「先生、『友達』って何なのか、わかりやすく教えてください!」


「今の君のあるがままの姿を知っていて
これまで君がたどってきた道をわかっていて
今、出来上がりつつある君を受け入れていて
なおかつ 君の今後の成長をやさしく後押ししてくれる。
それが友達というものだ。
−−−ウィリアム・シェイクスピア」

異議な〜し。
誰かを【友達】と呼ぶには、【今・現在】でのつながりが不可欠、ってことか。
さすがシェイクスピア先生。よ~くわかっていらっしゃる。
【友達】とは、現在形・現在進行形で語り、未来に向かって続いていく間柄の人。
となると、過去でしかつながっていないような関係はやっぱり単なる【知り合い】として構わないんだな。



ちょっと雑談して、メルアド交換した程度の仲なのに、「あー、あの子は私の友達だよ〜」と、その場にいない第三者との仲良しぶりを周囲にアピールしたがる人。
時々お目にかかる。
日本でも、英語圏でも。



「友達に、連絡をとっておけばよかった」と死の床で悔やんでいる人々の中には、そうした「あっという間に誰とでも友達面(づら)シタガリーノ」なタイプの人々が大勢混じっているのではないだろうか。
彼らにとって、友達は「質より、断然、量!」。付き合いは「広く、浅く!」。
ユング心理学で言う「外向性」にかなり傾いた人たちだと思われる。



(FacebookなどのSNSで、特に有名人というわけでもないのに「友達」の数が何百人、何千人...という人がいれば、まずヘヴィーな外向型の人と見て間違いなさそう。)


【参考記事】
「内向性と外向性の違いってなに?科学的に検証する」(2015.10.26 カラパイア 掲載)


若い頃にはあちこちに顔出しては遊びに仕事に忙しかった彼ら。
そんな彼らも、いつかは年を取る。
身体の自由が効かなくなってきて、いざ死を目前にした時に気付いた。
辛くてしんみりした状況にある今の自分にただ静かに寄り添い、話に付き合ってくれるような人は、結局一人もいなかった...。


そういう絶望的な状況からこの「後悔」が出ているのだとしたら、ちょっとかわいそうだな、気の毒だな、とは思う。
死に対する恐怖と、孤独とのダブルパンチでもって、相当心がもろくなってしまっているのではないだろうか。



一人遊びが得意中の得意で、ちょっとやそっとの孤独では揺らがないよう、さんざん鍛えられてしまった内向型人間の私。
残念ながら、彼らがどれほど苦しんでいるかは、単に想像することしかできない。



もし、そのような「連絡とっておけばよかった...」と悔やんでいる人が、私とそこそこ親しい関係にあって、ゆっくりと話せる時間が持てるのであれば、こんな話をしようかな、と、思う。


確かに、昔親しかったお友達と「もう一度会いたかった」「話したかった」というあなたのお気持ち、痛いほどよくわかります。

かく言う私にも、「音信不通にしちゃって、悪かったなぁ...」と、後ろめたい気持ちを感じないでもない「元・友人」が何人かいます。 おそらく、彼女達とはこの先一度も会うことは無いでしょう。仮に会ったところで、空白期間にどうしていたか、どこに住んでいたか、と、互いの歴史を確認するだけの、表面的な会話しかできないはずです。

だったら、このままフェイドアウトでいいのかな、って。今はそう自分に言い聞かせています。

結局、そうした「元・友達」とは、それ以上の仲に進展する理由が無かったのです。別にこっちが悪かったわけでもないし、はたまた相手に非がある、というわけでもない。特別に強いつながりでもない限り、人と人との縁が途切れてしまうなんてことは、昔の村社会と違って入れ替わりの激しい今時の人間関係ではザラにあること。 仕方がないことさ、縁があればまたいつかどこかで会えるさ、と、ドライに考えた方がいいと思います。

最近では、進学、結婚、転勤などの理由で、国内ばかりでなく、海外へ移住する人も珍しくありません。新しい環境に馴染もうと必死に頑張るあまり、昔の人々とついつい疎遠になってしまうのも仕方ないですよね。

何もかもうまくやろうとしたって、どこか取りこぼしが出てしまう。悲しいかな、人間は所詮、不器用な生き物なんです。 人付き合いでも100点満点取らなくっちゃ!なんて、それこそ「絵に描いた餅」じゃないですか。そんな高い目標を掲げてみたって、どこかで無理が来ますよ。

切れてしまった縁に関しては、「残念だけど、仕方がなかった。」その一言だけで充分でしょう。 

悔やんだところで、自分の至らなさを責めてみたところで、今更その人との間がどうなるわけでもないですし。万が一、再会できたとしても、それで「元・友人」が即、「現・友人」に昇格して、昔のような親密な交流が復活するかっていうと...ねぇ。

そういうハッピーエンド風の展開、期待しない方がいいでしょうね。もうちょっと若い頃だったら、「それもありかも...♪(ワクワク)」なんて夢の一つや二つも見たかもしれませんが。

人と人との間に起こる「化学反応」(「クリック click」)って、そんな単純なものじゃない、と思います。間に空白期間をはさむような場合は、特に。


「どんな人でも、人生の各段階において
一人ぐらいは『友達』がいるものだ。
だが、『一生を通じて付き合える友達』
に恵まれる幸運な人々は、
われわれの中のごく一部に過ぎない。」
(作者不詳)

なぜ、ある人とは縁が長いこと続き、ある人とは疎遠になってしまうのか。

お芝居にたとえてみましょうか。
たとえば、劇中では端役を担当している俳優が、突然気まぐれを起こしたとしましょう。


『もっと長い間舞台上にとどまりたい』

『もっと主役と長い台詞でやり取りしていたい』

と、与えられた脚本から脱線していった、とします。


しかし、俳優としては、あくまでも脚本に書かれた指示に従わなければいけません。
「退場」とあったら、退場。
それが、共同作業でもって一つの作品を作り上げていく舞台人に課せられた、暗黙の絶対ルールです。


出番を終えたはずの俳優が唐突に舞台袖からしゃしゃり出てきたり、 はたまた脚本を完全無視していつまでもウロウロしたり。そんなこと、普通、あり得ないですよね。そんな勝手気ままを許してしまったら、お芝居自体が大混乱に陥ってしまいます。先も見えない、結末もまとまらない、ただの混沌(カオス)でしょう。そんな失敗作を見せ付けられたお客さんにしてみれば、「金返せ!」でしかありません。


だから、複数の人間が協力して何か価値あるものを作り上げるためにはある程度の「縛り」「秩序」「たたき台」が必要となってくるのでしょう。お芝居の場合は、それが「脚本」。

人間関係も、一種の共同作業です。数え切れないほど多くの出演者が複雑に入り乱れているように見えても、実は背後にしっかりとした「脚本」があるんだと思いますよ。でなければ、「どうしてこのタイミングであの人と出会うことができたんだろう?」といった、忘れられない偶然の出会いを説明することはできないでしょう。 
去っていくお友達を繋ぎ止められなかったのは、あなたが悪いからではありません。お友達が非情だったからでもありません。単に、あなたと絡む場面が終わって、脚本にしっかりと「退場」と指示されていたから、立ち去ったのです。もっと大きな、断れないほど魅力的な役柄のオファーを受けて、別の劇場へと移ったのかもしれません。


あなたも、彼らも、脚本の指示通りに動いた。
それだけのことです。 


(こういう「人のはかなさ」をいきなり冒頭から論じるような文学作品が
何百年もの間、大切に受け継がれてきた国。
日本人のそういう美意識、素晴らしいと思います。)

まぁ、自分が主演する【人生】というお芝居に、脚本を書くのは一体誰なんだ、なんて聞かれても、正直なところ「わかりません」と言うしかないです。「生まれる前の自分と、天界のアドバイザーさん達が協力して仕上げた脚本」って説は、私の中では一番収まりがいいですけどね。

人は誰もがそうした脚本を心の奥底に隠し持っている。
意識でもってとらえることはできないながらも、その脚本の指示に従い、【人生】という一つの長いお芝居を一幕、また一幕...といった感じで組み立てているんじゃないでしょうか。

あなたは、その【人生】というお芝居で、主人公という役柄を立派に演じてこられたではありませんか。途中で投げ出したりしなかった。それだけでも、大変なお仕事ですよ。
手に汗握るスリリングな急所も無事切り抜けたし、たくさんの暴徒が乱入してきて、主人公危機一髪!という場面でも、雄々しく闘い、勝利を収めたではありませんか。

 なのに、あなたは今もなお、過去を振り返り、「しくじった」「もっとうまくやれた」と悔やんでいらっしゃる。

これ以上、後悔し、ご自分を責める必要、ありますか?

「無いです。与えられた役割は、精一杯、演じました。」って、今日からは力強く言い切ってしまいましょうよ。 

過去は過去。「もっと〜できたのに。」「〜すべきじゃなかった」と、ご自分をいじめるような真似はなさらないでください。そばで見ていて、いたたまれない気持ちになります。

後悔する気持ちを、祈りへと変えていきましょう。 もう会えないかもしれない、懐かしい人々が、今この瞬間にも地球上のどこかで平和に、無事に暮らしていることを祈ってみませんか。 

その思い、きっと時空を超えて、相手のもとに必ずや届くと思いますよ。

 「バカバカしい」と思われるのなら、それも結構。一種のファンタジーなんだろう、と、笑って受け流してくださいね。

生死問答-平成の養生訓 (平凡社ライブラリー)
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五木 スピリチュアル系の人の見解は、ファンタジーみたいにおもしろいので、つい物語として読んでしまいます。それによると、生まれてきたときには、あの世で計画してきたスケジュール表は、すべて忘れるようになっているから、この世では、自分で考え、自分で選択、行動しているように思えるけれど、じつはこれも、自分で描いた筋書き通りに歩いでいるだけだという。  
(...中略...)  
少なくとも、現在をつくっている過去の因果を、すべて肯定することで、あまりジタバタしない生きかたができるように思えますが。 


帯津 そうですよね。挫折によって、新しい可能性が生まれてくるということですね。少なくとも医者は、挫折を体験した人のほうがいい医者になりますね。すると挫折も、その人をいい医者にするための、筋書きなのだということになりますね。うん。楽しいですね。 
(「生死問答 平成の養生訓」五木寛之・帯津良一、平凡社、2011、pp.167−168)

五木さん、おもしろいです。
帯津先生、楽しいです。


五木 親鸞は、「わが計らいにあらず」という言葉をのこしていますが、ひとの人生のできごと、生老病死を考えると、私はいつもこのことを思います。
人生、 
「なるようにしかならない」、  
そして、さらに  
「しかしおのずとかならず、なるべきようになるのだ」 

と心のなかで納得します。そうすると、
不思議な安心感 
がどこからともなくやってきますね。 
(前掲書、p.168)

そう。
目指すべきは、この、安心感という最終目的地。
少しでも近づきたいのであれば、後悔という負の感情には背を向けた方がいい。
勇気を出して、逆の方向へと歩いていかないとね。




2016/02/16

続・異端は痛い

前回の「異端は痛い」で紹介した3段階の力について、もう少し書いておくとしよう。自分用の、覚え書き。


「危機に反応するのに、私たちは、

 集団[Tribal =部族の...筆者注。以下同様。]、

個人[Individual]、

象徴視点[Symbolic]

という三つの力を、自分が身につけた順に使っていく。
歴史的にも、個人としても、これはまったく同じプロセスだ。」


チャクラで生きる―魂の新たなレベルへの一歩
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(キャロライン・メイス 「チャクラで生きる」[原題:Why People Don't Heal and How They Can] 川瀬勝 訳、サンマーク出版、2000、p.142)


文庫本もあります。Kindle化して欲しいんだけどなぁ...。

チャクラで生きる -魂の新たなレベルへの第一歩- (サンマーク文庫)
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たとえば、一家の大黒柱であるお父さんが、突然交通事故に遭った、とする。
幸い一命は取り留めたものの、長期間のリハビリが必要な状態となってしまい、そこそこのポジションまで上がっていた会社を辞めねばならなくなってしまった。
苦しくなる一方の家計を支えるために、お母さんはフルタイムで働きに出なければならない。
子供たちも好きな習い事をやめなければならない。
こんな時、家族は一体どういう反応に出るか。
おそらく、


「一体なぜ、私たちがこんな目に」


という、やり場の無い怒りを込めた問いを繰り返すのみ、だろう。
自己憐憫や、怒りが転化してのうつ状態に陥ることも予想される。
無理もない。
足元の地面がガラガラと崩れていくような状況下で、正気を保っていられる人など、ほとんどいないのだから。



だが、いつまでも恨み節ばかり繰り返しているわけにはいかない。事は起きてしまったのだ。
「どうしてこんな目に?」
「どうして、他の人にではなく、自分に?」
と問いかけるだけのレベルをいつかは脱していく必要がある。
さもないと、同族集団から「かわいそうな犠牲者」との烙印を押され、それが定着してしまう。



(他人の不幸は蜜の味...って、いや〜な言葉ですよね。まさにこの、不健全な集団/同族意識のダークサイドそのものですよ。
「あんたたち、そのまんま不幸でいいよ。
成長しなくて、幸せになんなくていいよ。
惨めなまんまでぐるぐる下の方徘徊してたらいいさ。
そうすれば、我々が脅威を感じることなんてないからね〜!」
...上に行こうとする人の足を引っ張ろうとする集団/同族意識、上手にスルーしたいもんです。)



ある程度の期間は「喪の悲しみ」をとことん味わうというのも必要だろう。
これが、いわゆる「魂の闇夜」(Dark Night of the Soul)と呼ばれる、出口の見えない長い長いトンネルのような苦しい期間。
いつ終わるのか。
そもそも本当に終わる日が来るのか。
当事者にすら、
全くわからない。


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(キャロライン・メイス流の「魂の闇夜」論です。超おすすめ。)


やがて、多くの人はこのような自問自答の無限ループに巻き込まれる。


「自分は、この災難を自ら招き寄せたのだろうか?」
「今までの人生で、何か原因となるような罪を犯しただろうか?」


たった一人の被告人、すなわち自分ばかりをつい、責めがちなこの時期。
心身の健康が損なわれやすく、非常に注意が必要とされる。
神仏、もしくはそれに相当する「聖なる存在」の助けが得られないと、苦しみは長く、耐え難くなるばかりだ。


メイスは更に続ける。
(引用中の「病気」という語は、より広義に「危機的状況」と拡大解釈できるだろう。)


「病気という危機が、低いほうのチャクラを通して同族意識に浸透したあと、それは徐々に個人の心へと入っていく。


この移行は重大であるとともに、大きな怖れを伴うものだ。
 


なぜなら、同族意識のレベルで考え、行動しているうちは、私たちの体験も集団の支援を受けることができるからである。
 

しかし、それが個人の精神の領域へと入り、心理的、感情的な反応を引き起こすとき、
 

私たちは自分だけでやっていかなければならない。
 

明日はどんなことに直面しなければならないのか思いめぐらせながら、夜中にベッドに横たわる自分にささやきかけてくる恐れを黙らせることは誰にもできないのだ。」
(前掲書、p.143)


全くもってその通り。
人間は、本来、社会的動物として生きるようにプログラミングされた生き物。
ゆえに、「自分だけでやっていく」というのは実にコワい状況なのだ。



前回書いたように、物質中心・拝金主義にどっぷりと漬かり、神仏などの【聖なる存在】からすっかり遠ざかってしまった日本人・日本社会についていけないな、と感じることが年々増えてきた。
そろそろ同族(集団)意識の呪文から解放されて、「一人で歩いていこうかな...。」と思い始めたところ、意外にもそこにはまず、


「こわい」


という感情が浮かび上がってきた。
こわくないはずがない。「もう枠の外に出たんだから、応援も支えもあげませんよー」って、冷たく宣告されたも同然なのだから。



さて。
災難が起きてから時間も経ち、衝撃も次第に和らいでくると、少しずつ、動いていこうという気力も湧いてくる。
変わらずにはいられない。
それが世の常、人の常...というものである。



思う存分嘆いて、怒って、鬱屈した気持ちを何らかの形で表現し、外に出しきった時には、きっと「魂の闇夜」というトンネルも終点間近なはずだ。
次の課題が少しずつ、姿をあらわす。



いよいよ象徴レベルの力を発動させる段階へやって来た。



そう。
無事、集団/同族レベルの意識(第一段階)から離脱し、
恐れに立ち向かいながら、個人の力だけを頼って旅することができるようになる(第二段階)と、
次は象徴レベルの力の使い方を習得することとなる。
神仏=「聖なる存在」が身近に感じられ、直接(聖職者やチャネラーなどの「仲介者」無しに。)の交信も夢ではない、という段階へとやって来たのだ。


ここまでたどり着けた人には、



俯瞰的な視野


(Copyright: olgacov / 123RF Stock Photo)


という、人生を生きていく上で非常にありがたい贈り物が用意されている。
俯瞰的視野、という言葉がピンと来なければ、「近視眼的な物の見方から、パーーーッ!!!と視野が大きく開けること」と言い換えてもいい。



英語に"bird's eye view"(鳥瞰図)という表現があるが、鳥さんの目線でなく、神様・仏様レベルの聖なる存在目線から見た、生命の営みが、つまらぬ個人のこだわりや私利私欲抜きですっきりと、パノラマ画像で見えてくる...ってことだろう。



自分に起きた「不幸」が、実は不幸の形をまとった最大級の幸運であった、とはじめて気付くのも、この段階においてである。



先の交通事故に遭ったお父さんの一家、その後どうなったか少しだけ見てみよう。
力を合わせて苦しいトンネルをくぐり抜けた後、家族の運命は大きく変わっていった。


まず、お父さん。
自身のリハビリ経験を通じて「癒やしと健康」の分野に非常に興味を持つようになった。
一念発起し、数年間専門学校でみっちり学び、国家試験を経た後に鍼灸師として独立。
会社時代に培った幅広い人脈に助けられて、鍼灸院の経営もどうにか軌道に乗り始めたようだ。


次に、お母さん。
ずっと専業主婦だったが、知人の紹介で不動産会社の事務職として勤務。もともと、住まいの分野には興味があったので、次第に宅建の資格を取って収入アップしたい、と、欲が出てきた。通信講座や専門学校の集中講座などを利用し、数年がかりで難関の宅地建物取引士試験に合格し、給料も上がる。細やかな心遣いで、女性客やファミリー客からのご指名もしょっちゅう。


お姉ちゃん。
音大のピアノ科進学を目指していたものの、レッスン代の捻出が難しくなり、断念。その代わり、高校の音楽の先生のすすめで地元国立大学の音楽教育科を受けた。合格後は、週末や夜間にアマチュア合唱団の伴奏ピアニストも務めるようになる。コンクールで賞を取ることばかり考えて突っ走っていた以前より、音楽をもっともっと愛せるようになった気がする。一人で弾いていた時よりも、みんなで音楽を作っていく喜びが味わえて、うれしい。


弟。
私大付属の中高一貫校に通い始めたばかりだったが、やむなく公立校へと転校。居心地は良くなかった。ところが、高校では体育系の部活でまさかの大活躍。毎日が楽しい。
前の学校では裕福な家庭の子が多く、肩身が狭かったが、今の公立高校ではそのようなことは無い。アルバイトも経験した。
自分たちよりもはるかに大変な思いをしている友人の姿を見て、社会の厳しい現実を学んだ。
現在、法学部を目指して受験勉強中。将来は弁護士になりたい。


(※以上の話は全てフィクションです。モデルなんていませんよ。※)



まぁね。
上の架空の一家の物語は「めでたし、めでたし」と無難にまとめてしまったものの、実際、そこまでうまい具合に展開するかどうか。極めて怪しい。
もし、これが我が家に起こったら、どうなるか。



...どうでしょうねぇ。想像もつかない。



だから、考えても、心配しても、妄想しても、しょうがないわけで。
そんなことしている暇があったら、動け!働け!汗、流せ!でしょ。
で、ひたすら愚直に


「日々の営みは決して無駄にならない。前進は前進。」


と自分に言い聞かせながら歩いていくしかない、と思う。




野望やら、期待(という隠れ蓑をまとった、俗世臭がぷんぷんする「欲望」)なんて、忘れちゃえ。
そんなものは、邪魔くさい同族(集団)意識と一緒に故郷の土地に預けていこう。


旅、特に一人気ままにする旅は、身軽に行くのが一番ですからね。




∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴‥∵‥∴‥∴‥∵‥∴



前回の記事で商品リンクを貼った下のオーディオブックなんですが、私が面白いと感じた箇所、短いですが翻訳してみました。


メイスがいかにして「カトリック」という狭い同族社会の縛りから一歩外に出て、より高い視点から宗教というものを捉え直すことができた、という経験談が語られています。
興味のある方がいれば(←たぶんいないよ...笑。)、と思いまして...。



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【※対談中の略称ですが、

キャロライン・メイス=CM(Caroline Myss)

タミ・サイモン=TS
(Tami Simon:CDの発行元であるSounds True社の創業者で、名インタビュアー。仏教・瞑想に詳しい。)

で表記します。】


TS: 同族レベルの力の縛りから抜け出して、一つ上の段階、つまり個人レベルの力へと移行した、とのお話をされましたよね。もう少し具体的に、ご自身の体験を踏まえて語ってもらえませんか?


CM: 元々、私は筋金入りのカトリック教徒でした。最近では、そこまで堅苦しくない、「キリストの教えに従う者」といった立場へと変わって行きましたけど。


そのような経歴を持つ私がですね、キリスト教以外の宗教...仏教をゼロから「学ぶ」機会がありましてね。
...まぁ、「学ぶ」っていう言い方をするのも変なのですが。だって、宗教とは、ある伝統の枠組の中で「祈る」もの、でしょう?「祈る」か、「祈らない」かのどっちか一つ。「学ぶ」ではない。
歴史的な事実を「学ぶ」ことだって、まぁ、不可能とは言えないものの、そのようなアプローチでは「霊的な力を得る」なんて、どだい無理というものです。


とにかく、当時の私は「何らかの『霊験を得る』ことを目指す、ひとつの伝統」として仏教をとらえ、純粋に研究しようとしていました。
内心では、「仏教なんて、ホンモノの教えじゃないんだし、霊的パワーなんてあるわけないじゃない」と高をくくっていたのですね。


Copyright: kongsky / 123RF Stock Photo


ところが、仏教を学ぶにつれて、それが変わっていったのです。学べば学ぶほど、その教えに強く惹きつけられていく自分に気が付いたんですね。
「あっ、まずい。こんなに仏教のことを好きになってしまったなんて。」
...まるで自分が仏教と霊的に不義密通を犯しているようで、後ろめたい気持ちでした。



私は生まれも育ちも生粋のカトリックなんです。
それまでずっとキリスト教一筋で来ました。
ですから、何としても仏教に惹かれてはいけない、これ以上関わると身の破滅だ。そんな思いで七転八倒しましたね。



結局、最後には流れに逆らうのを諦めました。
で、仏教が説く「非執着(detachment)」「全てが幻想」という真理、そして豊潤な伝統の中に思い切って飛び込んでみたんですね。
すると、最高に気持ち良かった。


かくして、私は[仏教という]新たな力を自分の人生に取り入れることとなりました。
それに伴い、私の内面世界でキリスト教が果たしていた役割も、変わらずにはいられませんでした。
「パワーシフト」が起きたのですよ、自分の中で。
私の内面の構成要素がすっかり変わってしまいました。


あれは大きな転換点だったように思います。

2016/02/08

異端は痛い

「神なき国」となり果てて久しい、21世紀の日本。



この国で「何はさておき、神仏と共に、神仏だけを求めて生きる」ような人間は、はっきり言って【異端】という烙印を押されてしまい、よそ者扱いされてしまう、と思う。
残念ながら。


神。
仏。
聖なる存在。




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そんな単語、うっかり口に出そうものなら、サーーーッと周囲から人が引いていく。
「大学程度以上の教育を受けて、学齢期の子供がいて、そこそこ良いお父さんお母さんしていて...」といった、ごくフツーの中産階級日本人のオトナであれば、こんなところが典型的な反応だろう。


彼ら、特に30-40代の母親と呼ばれる女性群(今、こうした人達と接触する機会が多いもんで...。)が何よりも恐れていること、それは


【異端者】という烙印を押されること


↓


【集団意識/グループ・シンクからの追放】という厳罰。


ではないだろうか。




【異端者】とは必要以上に関わり合いにならない方が身のため、である。
自分も同類とみなされて、慣れ親しんだ集団から追放されかねないから。







私は、異国の地に住んで久しい。早いもので、今年で通算17年目を迎えた。
ゆえに、故郷との物理的接点は少ない。
(まぁ、毎年1回は里帰りしているのは、恵まれている方だと思う。)




元々、こちらに移り住む、という運命は自分の意思で選んだ。
それでも、年々薄れつつある昔馴染みとのつながりや、里帰り時に味わう「居場所の無さ感」「お客さん感」には、やはり一抹の寂しさを覚えずにはいられない。
物理的に「流刑者」である私が、この上「精神的な村八分」の刑にまで処せられてしまったとしたら、どうなるのか。




そりゃ、辛すぎる。

正真正銘の根無し草決定、なんて、そう安々と認めたくはない。
心はこんなに日本へと向かってやまない、というのに。



(遠い昔、ブラジルに移民した日系一世・二世には、亡くなるまでずっと日本への愛郷心を強く持ち続けていた方が多かった、とどこかで聞いたことがある。
くーーーっ、わかるな〜、その気持ち。
どんなにこっちが恋い焦がれても、遠い祖国から返ってくるのはつれない態度ばかり。
要するに、「片思い」ってことだね。)




そう。
年々強まっていく自分の【異端者】【はずれ者】的傾向。
最後の最後まで認めたくなかった。




それでも、抑えきれなかったのは、「霊性から完全に切り離されてしまった、今の日本の在り方には馴染めない。」という、正直な気持ち。
神仏=聖なる存在と切り離された生活 イコール 日本人らしい生活、ならば、そんなものは欲しくない。
日本的でない、とそしられても構わない。
【聖なる力】を否定し続けて生きるわけには、もういかない。
このことを潔く認めるだけの勇気、どうしても奮い起こせずにいた。




かと言って、故郷/日本という部族との最後のつながりを自らぶった切る。これもまた、やりたくはなかった。
どっちへ行ったら良いのか自分でもわからなくなってしまって、それでしばらくの間足踏み状態が続いていたのだろうな。



いわゆる日本での「売れ線」「人気」「社会の動向」が気になって仕方がない理由も、これで説明がつく。
日本という「同族集団」から、置いてきぼりにされ、切り捨てられるのがものすごく嫌だったからだ。




自分も、日本社会の片隅にしがみつきながら、一緒に時代を旅していたかった。
日本という、程よい大きさで旨味もたっぷりな、世界でも他に類を見ない独特の閉じた同族社会に所属している、守られている、と感じていたかった。
仲間がたくさんいる、という幻想にすがっていたかった。



同族社会は、老若男女、その中にいる人々のことは基本的に守ってくれるもの。確かに、そのメリットは大きい。

だが、私は心の自由という宝を明け渡さねばならない、という負の側面には目をつぶっていた。
そして、



「大丈夫。まだ追放されていないから。
あなたは今でも『日本社会』という同族集団の一員ですよ。」




という、甘い慰めの言葉で自分をごまかし、前へ一歩踏み出すことをずるずると引き延ばしにしていた。




さて。
もう、目をつぶり、逃げ惑うのはおしまいとしよう。




そしてひとりの【異端者】として、自分だけの道を切り拓くことを選ぼう。




同族集団が共有する価値観から自由になるために、勇気をもって次の一歩を踏み出す時期が来たようだ。



神仏の大いなる導きの前に身を低くし、その道具となって黙々と働こう。
おのれの真実に嘘をつくことなく、正直に生きよう。




そして、集団思考という足かせから自由になるというプロセスを楽しみながら、自分を慈しむことをゆっくりと、ていねいに学んでいこう。





キャロライン・メイスによれば、私たちを内面から突き動かす力には3つのレベルがあるという。



人が一生のうちにどこまで到達できるかは、それぞれの意思・資質次第。
ただ、いやしくも「俗世間に生きる神秘家(mystics without monastery=直訳:修道院を持たない神秘家)」の道を歩もうと決意した者であれば、3番目のレベルにまで到達することが必須条件となるだろう。
一生(もしくはそれ以上)をかけて取り組まなければならない難事業ではあるけれど。

1.同族レベルでの力(いわゆる「集団思考/グループ・シンクgroup think」からの教育/洗脳にどっぷり漬かっている状態。守られているため心地良いのは確かだが、その人独自の個性は育たない) 

2.個人レベルでの力(同族集団=生まれ育った集団から拒絶されるというリスクを冒してでも、自分という人間にとっての真理を追求できるようになる)  

3.象徴レベルでの力(宗教、神話、聖なる存在…等々からのメッセージをダイレクトに受け取り、それに従い、「神の道具」たる自覚を持って行動できるようになる)


とりあえず、今の目標はレベル1からレベル2へと意識的に(居眠りしながら、ではなく。)移行すること、かな。
決して楽な作業ではない。どこまで上がれるのかも、わからない。
でも、一度乗りかかった舟だ。
途中で放り出すわけにはいかない。




Three Levels of Power
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Sounds True (2010-04-14)




(前半は聴衆を前にしての講演、後半はSoundsTrue社CEOのタミ・サイモン女史によるインタビューとなっています。中身、特濃!!!ですよ。)

2014/05/19

映画「禅 ZEN」:ただ坐る。ただ生き抜く。

2009年に劇場公開された、こちらの作品。






主演は、中村勘太郎(現・勘九郎)さん。
言わずと知れた、歌舞伎界の巨星・故・中村勘三郎さんのご長男ですよね。
40半ばのおばさんである筆者としては、「あぁ、あの可愛かった坊やが、よくぞここまで立派な役者さんに...。」と、実に感慨深いものがあります。





1:15以降の部分、弟さんの七之助さんとのツーショットには「きゃー!可愛い~~~!!!」を抑え切れませんっ。
それにしても、最初のサラダ油ギフトセットCMに出てくる勘三郎さん、若い...。
1970年代の若人、って感じです。



監督は高橋伴明さん。
そのためか、冒頭部分に奥様の高橋恵子さんが、主人公の母親役でほんの少しだけ出演されています。



道元禅師

道元禅師は1200年、京都にお生まれになり、14歳のときに比叡山(ひえいざん)にて得度(とくど)されました。24歳で仏道を求め宋に渡ると如浄(にょじょう)禅師のもとで修行に励まれ、「正伝の仏法」を相続されました。

28歳で帰国した後、正しい坐禅の作法と教えをすすめようと『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著され、34歳のときに宇治に興聖寺(こうしょうじ)を建立し、最初の僧堂を開いて修行者の養成と在俗の人びとへの教化を始めました。

また、仏法の境地と実践を伝えるべく『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の執筆を続けられ、45歳のときに越前に大仏寺(後に永平寺と改名)を建立しました。

その後も道元禅師は修行の生活を送りながら弟子の育成につとめられ、1253年、54歳でそのご生涯を閉じられました。
(曹洞宗公式サイト・曹洞禅ネット「一仏両祖」の項より )





これまでの私は、海外在住が長いこともあって、仏教とは疎遠な毎日を送っていました。
(お線香の香りとお寺の純和風建築、そして鐘や木魚の音色は昔っから大好きですけどね!)
世界史選択の日本史嫌いゆえ、道元や曹洞宗について知っていることなんてごくわずか。
道元さん = 鎌倉時代に始まった日本の禅仏教を代表する僧侶。福井・永平寺を開山。
「正法眼蔵」などの著作は、ハイデッガーなど西洋の哲学者からも高く評価されている。
...その程度。






でも、夫の実家も、私の実家も法事の時にはずっと曹洞宗のお寺にお世話になってきたんですよ。
なのに、「全然知らないんですぅ~☆」じゃぁ、ねぇ。
いい年した大人が、さすがにそれではまずいと思いましてね。





旅に習い事に同窓会に...
と、現在、第二の青春を謳歌中の、我が家の3人のおじいちゃん・おばあちゃんたち。彼らもそろそろ80代です。
子世代としても、曹洞宗や、お寺さんに関する最低限の知識ぐらいは押さえておかないと、いざという時、お坊さんときちんと話もできないだろう...と、ずっと気になってはいました。
そんな時、YouTubeでたまたま見つけたのがこの映画「禅 ZEN」。







なんとありがたいことでしょう...。
この週末、全編フルに堪能させていただきました。



心に響いた場面は多々あります。
中でも一番ずしんと来たのが、ここ。上の予告編でも出てきましたね。



内田有紀さん演じる、貧しい遊女・おりん。
病気で乳飲み子を亡くした彼女は、救いを求めて道元の寺を訪れ、坐禅に取り組みます。



53:52あたりからの場面です。


http://youtu.be/PcoNpB4zG3o?t=53m52s



道元の弟子・俊了から坐禅の手ほどきを受けていたところ、抑えていた感情が爆発したように
「死んでやる~~~!!!」と、激しく取り乱し始めた、おりん。


「あたいは自分が憎い。

殺してやりたいほど、憎い。

あたいの中に仏がいる、なんてだます、あんたらも憎い...!

南無阿弥陀仏の方がよっぽどましだ!!!」




「嘘ではない!」


騒ぎを聞きつけて駆けつけた道元の、魂のこもった一喝。


「汝の中に、仏はいるのだ!!!」



「...ただな、簡単に仏さんには出会えんのだよ。

人間は誰もが あれが欲しい これが欲しい

ああなりたい こうなりたいと 貪(むさぼ)り、

思うようにならぬと 腹が立って 愚かなことをしてしまう。



そのようなもので目隠しをしているから、

仏が見えぬのだ。


だから坐るのだ。

その目隠しが取れるまで、ひたすら坐るのだ。

そうすれば 自分の中の仏と向き合える。


...おりん。


自らを殺すとは、仏を殺すことだ。


そして 他者への依存は
自らの仏を 否定することだ。」



実にシンプルな言葉です。
道元禅師はここで私たち人間全てに向けて、大変重要なメッセージを発しておられます。



「自殺は、してはならない。
他殺も、してはならない。
そして、自分以外の他者への依存も、

 止めねばならない。
仏は、自分の中にいる。」




精神世界・スピリチュアルといった分野の本は相当読み漁ってきたので、これまでにも似たような言葉はどこかで見聞きしているはずです。
でも、ここまでストレートにずしんと自分の内奥部分にまで届いたメッセージ、ちょっと思い出せません。




何事にも受け入れるのに適切な「時」(タイミング)がある。そういうことなのですね。
すごいなぁ。「時」と自分の内面が化学反応した時にだけ起こる、魔法の力って。




道元禅師という人物、そして禅の教えにとても興味が湧いて来ました。



これまで自分が経験してきた出来事ひとつひとつを教材としながら、先人の残してくれた禅の叡智を少しでも理解したい。
心からそう思えました。
もう「禅もどき」に戻ることは無いでしょう。



他にも忘れがたい場面もいくつかありました。


例えば、当時の執権・北条時頼が道元から教えを授けられる場面。
周囲からの殺意や敵意といった、さまざまな悪しき想念を一身に受けるうちに、狂人すれすれのところまで追い詰められてしまった、【孤独で哀れな若者】という時頼像を、藤原竜也さんが見事に演じています。それに対する道元禅師の教えも見事です。
藤原竜也さん、十代の頃から「心に闇を抱えた少年(青年)」を演じさせたら天下一品でしたよね。素晴らしい俳優さんだと思います。日本版レオナルド・ディカプリオ...って感じ、しませんか?



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↑そ、そっか。だから「友情出演」なのね!しかも高橋大輔選手!どこかの図書館にあったら読みたい~!



また、この作品は上に引用した部分でもわかる通り、「おりんという女性の成長物語」という伏線からアプローチすることもできます。
アマゾンレビューで多くの方々が書かれていますが、最後の場面での子供たちとのやり取りには、思わず目頭が熱くなってしまいます。引用なんて野暮なことはしません。
ぜひ、ご自分でご覧になって、何かを感じてみてください。
「慈母」そのものといったまなざしで子供達を見つめる内田さん。美しさにほれぼれしますよ。



最後には、力強く中国の大地を一人歩む、おりんの姿が映し出されます。
自らの天命を見出した人ならではの澄み切った、まっすぐな瞳が印象的です。
そんな彼女の姿を遠くから見守る道元禅師の、そして引いてはお釈迦様の目線にも似たカメラアングルでもって、作品は静かに幕を閉じます。



ほんとに、この作品は「人間的な、あまりに人間的な」おりんさんの存在抜きには成立し得ないですよ。
人生のスタートがどれほど不幸まみれでも、何度つまづいたとしても、それでも、人間には自力で仏性をおのれの中に再発見するだけの力が、ちゃんと備わっている。
彼女の生き方がそれを教えてくれました。






そしてそして。
主演の中村勘太郎(現・勘九郎)さんが作り上げた道元禅師像。
映画全編をスーーーーッと「流し見」してしまうと気付きにくいのですが、こうして文章にするためYouTube上の動画をちょこちょこおさらいしてみると、


【若き学僧時代の道元】



から



【禅の教えを体現する偉大な霊的指導者・道元】



に到るまでの間、話し方や表情が大きく変化しているのに驚かされます!
ほとんど別人、と言ってもいいほど。いやぁ~、感服です。お見事としか言いようがありません!!!



勘太郎さんも、中村勘三郎(先代・勘九郎)という偉大な父親の長男として歌舞伎の世界に生まれ、「どうにもならない運命」の呪縛に幼い頃からずっと苦しんでこられた方ではないかと思います。



ガッチガチの伝統やらしきたりやら、とにかく「過去から伝えられてきた物が偉いんだ!」という業界にあって、いかに自分というものを表現できるか。

いかに自分なりの生き方を切り開いていくか。自問自答を絶えず迫られます。
そうした困難な課題と常に向き合い、ひとつひとつハードルを乗り越えてきた中村勘太郎さんだからこそ、日本仏教の歴史に名を残した偉人・道元禅師を演じるという難易度の高いお役目も立派に果たすことができたのかも。
私には、そう思えてなりません。



仏教と歌舞伎。
全く異質に見える二つの世界ですが、
【先人たちの業績を尊ぶ】
【ひとつの道に専心する】
【常に『超一流』のレベルを要求される】
点では共通しています。
案外、近いところに位置しているのかもしれません。




でなかったら、勘太郎さんがあそこまで「透き通った」感じの道元禅師は演じられないと思うのです。
監督さんが「とにかく真面目」と評する、彼のお人柄によるところも大なのでしょうけど。




DVDは2種類あります。ご予算に合わせて、どうぞ。
映画館までの交通費、それに加えての飲み物だの、食事だの、なんて出費を考えれば、決して高いお値段ではありませんよね。


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(早速、楽天市場のポイント使って買っちゃいました~♪手元に置いて、じっくりと見返したい作品ですから。)



道元禅師の教えを福井・永平寺とともに受け継ぐ、曹洞宗もうひとつの大本山・総持寺(横浜市鶴見区)にも、今年はきちんとお参りしたいなあ。日帰りの坐禅体験、日程が許せば行きたいですね。
白状しますと、今まで私にとっての総持寺と言えば、



石原軍団




(石原裕次郎さんのお墓があります。しかも、境内の立て札には「裕ちゃんの墓」...。)



と、



毎夏恒例の「一休さん」レイブ盆踊り w/DJ Bouzuでしかなかったので、





そろそろ意識の書き換えをしないと(笑)。
(一休さんは曹洞宗でなく、もうひとつの禅宗メインストリーム・臨済宗のお方、なんて突っ込みはナシよ♥♥♥)