2016/09/18

疎遠になってしまった「友達」。後悔したって仕方がない。

これ、「ちょっといい話」として読まれたがっている記事なんだろうけど...。



言わんとしていることは、わかる。
身近な人の死を経験したことのある人、何らかの形で生と死について考えた経験のある人であれば、おおむね共感できる内容だろう。


文中に出てくるナース(看護師)は、ブロニー・ウェアさんというオーストラリアの方。
記事中では明記されていないが、2012年にHay House(*注)から単行本も出されているそうな。
あ〜、道理で、イギリスのThe Guardian紙などでも大きく取り上げられていたわけだ。

【参考記事】 Top five regrets of the dying  (02/01/2012 The Guardian)

いわゆる「ステマ」、つまり巷で盛り上がっているというイメージを演出するための「ステルス・マーケティング」の一環だったのか。
Hay Houseという出版社がいかにも好みそうな売り出し方だ。

*注:Hay House/ヘイハウス=玉石混交のニューエイジ・スピリチュアル系に力を入れている、新興の大手出版社。アメリカ版サン◯ーク出版ってところかな。あられもない派手な宣伝の仕方とか、大げさなキャッチコピーとか、猛プッシュする作家や本の選び方とか、「双子か?」って言いたくなるほど、似通ってます。
(...ちなみに、私が幾度も取り上げているキャロライン・メイス(Caroline Myss)は、Hay Houseとサン○ークの両方から本/オーディオブック出してますがね。怪しさ倍増じゃん...。)
 創業者は、自らも数多くの自己啓発本を執筆していることで知られるルイーズ・L. ヘイ 


The Top Five Regrets of the Dying: A Life Transformed by the Dearly Departing
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しかも、その年の暮れには、日本語版も出ている。それも、新潮社という、これまた大手出版社から。
早っ!!!


(上の洋書版唯一の五つ星カスタマーレビュー、明らかに日本語版関係者の手による「宣伝文句」ですね。ホント、コウイウノ、ヤメテホシイ...。
書く方も書く方だけど、内容が全然伝わらないようなやらせレビューをレビューとして放置するAmazonさんの姿勢もどんなもんかな〜、と思う。)


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記事の中で、一箇所だけ引っ掛かりを感じたところがあった。
それは、




「4. 友達をもっと大切にして、
連絡をとっておけばよかった」



の部分。



「連絡をとっておけばよかった」と死ぬ段になって悔やまれるような付き合いレベルの「友達」、ねぇ...。



あのー、そういう過去のつながりしかない人のことを【友達】と呼ぶ癖、いい加減にやめてはいかがでしょう?
で、

【昔の知り合い】
【古い知人】
【以前、親しかった人】


にワンランク格下げ、でOKってことにしませんか。
断捨離、断捨離。



知り合いになった人は誰でも彼でも特Aランクの【友達】というカテゴリに突っ込み、後生大事にキープしておく。
音信不通となって久しいにもかかわらず、【友達 or not? 】と自問する嫌な作業は先延ばし。
そうこうしているうちに、「あの時、自分から連絡していれば...」と、楽しかった過去の日々を思い出しては、後悔ばかりが繰り返される、という悪循環に陥る...。




私だけが一人で叫んでもしょうがないか。
では、ちょっとこの辺でドクネットでつながっているスペシャルなドクター...じゃなかった、エリザベス朝イングランドの演劇界を代表する大御所劇作家であり、人間観察マイスターとしても知られるシェイクスピア先生にも聞いてみるとしよう。


「先生、『友達』って何なのか、わかりやすく教えてください!」


「今の君のあるがままの姿を知っていて
これまで君がたどってきた道をわかっていて
今、出来上がりつつある君を受け入れていて
なおかつ 君の今後の成長をやさしく後押ししてくれる。
それが友達というものだ。
−−−ウィリアム・シェイクスピア」

異議な〜し。
誰かを【友達】と呼ぶには、【今・現在】でのつながりが不可欠、ってことか。
さすがシェイクスピア先生。よ~くわかっていらっしゃる。
【友達】とは、現在形・現在進行形で語り、未来に向かって続いていく間柄の人。
となると、過去でしかつながっていないような関係はやっぱり単なる【知り合い】として構わないんだな。



ちょっと雑談して、メルアド交換した程度の仲なのに、「あー、あの子は私の友達だよ〜」と、その場にいない第三者との仲良しぶりを周囲にアピールしたがる人。
時々お目にかかる。
日本でも、英語圏でも。



「友達に、連絡をとっておけばよかった」と死の床で悔やんでいる人々の中には、そうした「あっという間に誰とでも友達面(づら)シタガリーノ」なタイプの人々が大勢混じっているのではないだろうか。
彼らにとって、友達は「質より、断然、量!」。付き合いは「広く、浅く!」。
ユング心理学で言う「外向性」にかなり傾いた人たちだと思われる。



(FacebookなどのSNSで、特に有名人というわけでもないのに「友達」の数が何百人、何千人...という人がいれば、まずヘヴィーな外向型の人と見て間違いなさそう。)


【参考記事】
「内向性と外向性の違いってなに?科学的に検証する」(2015.10.26 カラパイア 掲載)


若い頃にはあちこちに顔出しては遊びに仕事に忙しかった彼ら。
そんな彼らも、いつかは年を取る。
身体の自由が効かなくなってきて、いざ死を目前にした時に気付いた。
辛くてしんみりした状況にある今の自分にただ静かに寄り添い、話に付き合ってくれるような人は、結局一人もいなかった...。


そういう絶望的な状況からこの「後悔」が出ているのだとしたら、ちょっとかわいそうだな、気の毒だな、とは思う。
死に対する恐怖と、孤独とのダブルパンチでもって、相当心がもろくなってしまっているのではないだろうか。



一人遊びが得意中の得意で、ちょっとやそっとの孤独では揺らがないよう、さんざん鍛えられてしまった内向型人間の私。
残念ながら、彼らがどれほど苦しんでいるかは、単に想像することしかできない。



もし、そのような「連絡とっておけばよかった...」と悔やんでいる人が、私とそこそこ親しい関係にあって、ゆっくりと話せる時間が持てるのであれば、こんな話をしようかな、と、思う。


確かに、昔親しかったお友達と「もう一度会いたかった」「話したかった」というあなたのお気持ち、痛いほどよくわかります。

かく言う私にも、「音信不通にしちゃって、悪かったなぁ...」と、後ろめたい気持ちを感じないでもない「元・友人」が何人かいます。 おそらく、彼女達とはこの先一度も会うことは無いでしょう。仮に会ったところで、空白期間にどうしていたか、どこに住んでいたか、と、互いの歴史を確認するだけの、表面的な会話しかできないはずです。

だったら、このままフェイドアウトでいいのかな、って。今はそう自分に言い聞かせています。

結局、そうした「元・友達」とは、それ以上の仲に進展する理由が無かったのです。別にこっちが悪かったわけでもないし、はたまた相手に非がある、というわけでもない。特別に強いつながりでもない限り、人と人との縁が途切れてしまうなんてことは、昔の村社会と違って入れ替わりの激しい今時の人間関係ではザラにあること。 仕方がないことさ、縁があればまたいつかどこかで会えるさ、と、ドライに考えた方がいいと思います。

最近では、進学、結婚、転勤などの理由で、国内ばかりでなく、海外へ移住する人も珍しくありません。新しい環境に馴染もうと必死に頑張るあまり、昔の人々とついつい疎遠になってしまうのも仕方ないですよね。

何もかもうまくやろうとしたって、どこか取りこぼしが出てしまう。悲しいかな、人間は所詮、不器用な生き物なんです。 人付き合いでも100点満点取らなくっちゃ!なんて、それこそ「絵に描いた餅」じゃないですか。そんな高い目標を掲げてみたって、どこかで無理が来ますよ。

切れてしまった縁に関しては、「残念だけど、仕方がなかった。」その一言だけで充分でしょう。 

悔やんだところで、自分の至らなさを責めてみたところで、今更その人との間がどうなるわけでもないですし。万が一、再会できたとしても、それで「元・友人」が即、「現・友人」に昇格して、昔のような親密な交流が復活するかっていうと...ねぇ。

そういうハッピーエンド風の展開、期待しない方がいいでしょうね。もうちょっと若い頃だったら、「それもありかも...♪(ワクワク)」なんて夢の一つや二つも見たかもしれませんが。

人と人との間に起こる「化学反応」(「クリック click」)って、そんな単純なものじゃない、と思います。間に空白期間をはさむような場合は、特に。


「どんな人でも、人生の各段階において
一人ぐらいは『友達』がいるものだ。
だが、『一生を通じて付き合える友達』
に恵まれる幸運な人々は、
われわれの中のごく一部に過ぎない。」
(作者不詳)

なぜ、ある人とは縁が長いこと続き、ある人とは疎遠になってしまうのか。

お芝居にたとえてみましょうか。
たとえば、劇中では端役を担当している俳優が、突然気まぐれを起こしたとしましょう。


『もっと長い間舞台上にとどまりたい』

『もっと主役と長い台詞でやり取りしていたい』

と、与えられた脚本から脱線していった、とします。


しかし、俳優としては、あくまでも脚本に書かれた指示に従わなければいけません。
「退場」とあったら、退場。
それが、共同作業でもって一つの作品を作り上げていく舞台人に課せられた、暗黙の絶対ルールです。


出番を終えたはずの俳優が唐突に舞台袖からしゃしゃり出てきたり、 はたまた脚本を完全無視していつまでもウロウロしたり。そんなこと、普通、あり得ないですよね。そんな勝手気ままを許してしまったら、お芝居自体が大混乱に陥ってしまいます。先も見えない、結末もまとまらない、ただの混沌(カオス)でしょう。そんな失敗作を見せ付けられたお客さんにしてみれば、「金返せ!」でしかありません。


だから、複数の人間が協力して何か価値あるものを作り上げるためにはある程度の「縛り」「秩序」「たたき台」が必要となってくるのでしょう。お芝居の場合は、それが「脚本」。

人間関係も、一種の共同作業です。数え切れないほど多くの出演者が複雑に入り乱れているように見えても、実は背後にしっかりとした「脚本」があるんだと思いますよ。でなければ、「どうしてこのタイミングであの人と出会うことができたんだろう?」といった、忘れられない偶然の出会いを説明することはできないでしょう。 
去っていくお友達を繋ぎ止められなかったのは、あなたが悪いからではありません。お友達が非情だったからでもありません。単に、あなたと絡む場面が終わって、脚本にしっかりと「退場」と指示されていたから、立ち去ったのです。もっと大きな、断れないほど魅力的な役柄のオファーを受けて、別の劇場へと移ったのかもしれません。


あなたも、彼らも、脚本の指示通りに動いた。
それだけのことです。 


(こういう「人のはかなさ」をいきなり冒頭から論じるような文学作品が
何百年もの間、大切に受け継がれてきた国。
日本人のそういう美意識、素晴らしいと思います。)

まぁ、自分が主演する【人生】というお芝居に、脚本を書くのは一体誰なんだ、なんて聞かれても、正直なところ「わかりません」と言うしかないです。「生まれる前の自分と、天界のアドバイザーさん達が協力して仕上げた脚本」って説は、私の中では一番収まりがいいですけどね。

人は誰もがそうした脚本を心の奥底に隠し持っている。
意識でもってとらえることはできないながらも、その脚本の指示に従い、【人生】という一つの長いお芝居を一幕、また一幕...といった感じで組み立てているんじゃないでしょうか。

あなたは、その【人生】というお芝居で、主人公という役柄を立派に演じてこられたではありませんか。途中で投げ出したりしなかった。それだけでも、大変なお仕事ですよ。
手に汗握るスリリングな急所も無事切り抜けたし、たくさんの暴徒が乱入してきて、主人公危機一髪!という場面でも、雄々しく闘い、勝利を収めたではありませんか。

 なのに、あなたは今もなお、過去を振り返り、「しくじった」「もっとうまくやれた」と悔やんでいらっしゃる。

これ以上、後悔し、ご自分を責める必要、ありますか?

「無いです。与えられた役割は、精一杯、演じました。」って、今日からは力強く言い切ってしまいましょうよ。 

過去は過去。「もっと〜できたのに。」「〜すべきじゃなかった」と、ご自分をいじめるような真似はなさらないでください。そばで見ていて、いたたまれない気持ちになります。

後悔する気持ちを、祈りへと変えていきましょう。 もう会えないかもしれない、懐かしい人々が、今この瞬間にも地球上のどこかで平和に、無事に暮らしていることを祈ってみませんか。 

その思い、きっと時空を超えて、相手のもとに必ずや届くと思いますよ。

 「バカバカしい」と思われるのなら、それも結構。一種のファンタジーなんだろう、と、笑って受け流してくださいね。

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平凡社
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五木 スピリチュアル系の人の見解は、ファンタジーみたいにおもしろいので、つい物語として読んでしまいます。それによると、生まれてきたときには、あの世で計画してきたスケジュール表は、すべて忘れるようになっているから、この世では、自分で考え、自分で選択、行動しているように思えるけれど、じつはこれも、自分で描いた筋書き通りに歩いでいるだけだという。  
(...中略...)  
少なくとも、現在をつくっている過去の因果を、すべて肯定することで、あまりジタバタしない生きかたができるように思えますが。 


帯津 そうですよね。挫折によって、新しい可能性が生まれてくるということですね。少なくとも医者は、挫折を体験した人のほうがいい医者になりますね。すると挫折も、その人をいい医者にするための、筋書きなのだということになりますね。うん。楽しいですね。 
(「生死問答 平成の養生訓」五木寛之・帯津良一、平凡社、2011、pp.167−168)

五木さん、おもしろいです。
帯津先生、楽しいです。


五木 親鸞は、「わが計らいにあらず」という言葉をのこしていますが、ひとの人生のできごと、生老病死を考えると、私はいつもこのことを思います。
人生、 
「なるようにしかならない」、  
そして、さらに  
「しかしおのずとかならず、なるべきようになるのだ」 

と心のなかで納得します。そうすると、
不思議な安心感 
がどこからともなくやってきますね。 
(前掲書、p.168)

そう。
目指すべきは、この、安心感という最終目的地。
少しでも近づきたいのであれば、後悔という負の感情には背を向けた方がいい。
勇気を出して、逆の方向へと歩いていかないとね。




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