2016/09/08

嘘つきは、自己愛人間(ナルシシスト)のはじまり。

キャロライン・メイス(Caroline Myss)


今、6枚組CDセット”What Makes Us Healthy?”(人はいかにして健康になれるか...←意訳。)の3枚目を聴いている。





いや~、このおばちゃん、とことん「ブレない」ですね。清々しいほど。



嫌われても、叩かれても、そんなん知るか!って感じでズンズン我が道大股歩きしちゃってる。
岸見一郎さん(アルフレッド・アドラーの心理学をわかりやすく説明した著書を多数出されていることで有名。)流に言えば、
「嫌われて大いに結構!(おぉ、晩飯食うな!)」という決めゼリフが見事に決まる、勇者の中の勇者ってところだなー。


(「バカで結構、晩飯食うな!」という、人からバカ呼ばわりされた時に昔よく使っていた応酬言葉。 あの〜、ひょっとしてこれ、神奈川方面でしか使われていない「ご当地表現」なんでしょーか!?)



嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
岸見 一郎 古賀 史健 
ダイヤモンド社 
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アドラーせんせい、こ、これはもしかして仮面ライダーV3の変身ポーズでわ???

(加藤諦三先生がゲストの回で「人に好かれたい病」を告白していた大竹まことさん。
両親ともに有名芸能人ということで、陰ではいろいろと苦労もあったであろう辺見えみりさん。
岸見さんの誠実な語りによってお二人の素顔がうまく引き出された良い対話でした。)



とかく自分を甘やかし過ぎ、憐れみ過ぎ、特別扱いし過ぎな現代のわれわれ。

こうした甘ちゃん連中の性根を徹底的に鍛え直し、「ナルシシズム(自己愛)の害毒」から引き離してやるわよ、とばかりに、またもや鬼軍曹キャラを遺憾なく発揮しているキャロライン。
今回のCDでは、ブッダ(お釈迦様)の言葉や、「すべては幻」に代表される仏教の教えにかなり接近しているといった感じ。



「癒された~い」 「慰められた~い」



と期待した人、1枚目のCD開始から10分も経たぬうちに激しく後悔するはず。
(その手の人による怒りの一つ星レビュー、Amazon.comにいくつも掲載されてますね。これも、キャロライン・メイスにとっては「いつものこと」。想定内ですよ、想定内。)




彼女曰く、こうした自分甘やかしが特徴の「ナルシシズム(自己愛)」からいつまでも抜けられない人の生育史を発掘していくと、たいていの場合、6~7歳辺りの子供時代に、



「本当は真実を言いたかったんだけど、何らかの事情で言えなかった」 
「正直に白状することもできた。なのに、つい心が弱くなって嘘ついてしまった」


といった、


「真実」 「嘘」

の境界線を曖昧にして、自分の心の声を押しつぶしてしまった...という実体験が見つかる、という。



嫌われたくなかった。
親が怖かった。
自分一人だけ悪目立ちするのがいやだった。
...など、嘘をついてしまった理由はさまざまだが、


【真実を言い出せなかった】


という、6~7歳での決定的な体験がきっかけとなって、人は


【自分かわいさゆえに、保身に走る】


という逃げの態度を身につけてしまう、ということらしい。
人生のどこかで「これじゃダメだ」と気付いて、矯正しようと意識的な努力をしない限り、大人になっても「自分は悪くない、悪いのは他の奴らだ。世間だ。会社だ。何で自分ばかりがひどい目に遭うんだ~!」といった泣き言ばかり繰り替えすようになるのだ、という。
(これ、あくまでもキャロライン・メイス説ですからね、念のため。)



アメリカ合衆国初代大統領・ジョージ・ワシントンの、あまりにも有名な
「すみません。僕が桜の木を切りました。」というエピソード。
(もっとも、現在ではあれは一種の「都市伝説」だ、との見方が有力なようだが。
逸話では、ジョージ少年が厳しい父の前で「辛くても、真実を語ろうと勇気を振り絞った」とされるのが、7歳の時だった...と伝えられている。
「嘘=保身に走るか。それとも、真実=勇気を選ぶか」という、人生の大きな分岐点に差し掛かった6~7歳の小学校低学年児童に、


「嘘はだめです。
たしかに、真実はこわい。
でも、勇気を振り絞って真実を選べば、最後には必ず報われます。」


という教えをわかりやすく伝える道徳説話として「使える」ことが長年の歴史で証明されてきたからこそ、アメリカのみならず世界中で語り継がれる逸話となったのだろう...



以上、キャロラインおばさんによる仮説でした。



ここから先は私自身の勝手なつぶやき。CDの内容からは少し離れること、あらかじめお断りしておく。




6~7歳。
幼稚園年長から小学校入学にかけての、「【仲良し】と、【それ以外】の人間関係がそろそろ固まってくる時期」だよね?
【自分】と【他者】の力関係を天秤にかけて、「あぁ、今までずっと自分は『世界で一番エラい』なんて思っていたけど、実は自分なんて大したことない、つまらない存在なんだな。本当にエラいのは、【他者】だの方だった...。」
という、辛い結論に到達する子もいるかもしれない。


となると、この6〜7歳という時期を境目として


「仲間ハズレにされるのが怖くて...」 
「一人だけ目立ちたくなくって...」 
「ママの喜ぶ顔が見たくって...」


といった理由に駆られて、やむなく「嘘デビュー」を飾らざるを得ない子供たちがうじゃうじゃ出てきても全然おかしくはない。
最近の言葉で言うならば、「同調圧力に負けて」の嘘デビュー、ってことかな。



嘘自体が絶対的に悪い、と、聖人君子ぶるつもりはない。
目の前の人を傷つけたくなくって事実を曲げて、本当ではないことをつい、言ってしまったことは誰にでもあるはず。もちろん、私にもある。
英語でいう"white lie"といった類の嘘は、なめらかな人間関係をキープする上ではある程度避けては通れないものだ、と思う。



恋愛が絡む場面となると、誰でも嘘の一つや二つはついた(あるいは、「つかれた」)苦い思い出があるんじゃなかろうか?
「いいえ、無いです!(キッパリ!)」と断言できる方がいたらいたで、それは素晴らしいですがね。これからも正直街道を驀進していただきましょう。


デモ、イルノカナ、ソンナヒト…。





(リソ&ハドソン両先生によるエニアグラムの本で一番嬉しかったのは、Fleetwood Macの「元祖・美魔女」スティーヴィー・ニックスStevie Nicksと、元ユーリズミックスのアニー・レノックスAnnie Lenoxが自分と同じタイプに分類されていたこと。
ええ、どうせ単なるミーハーですよ。)




問題となるのは、それが恒常化してしまった時。
「こんなの、『プチ嘘』だよ。そう言う以外に仕方が無かったんだ。大したことじゃないさ。」と、悪いことしても自分を正当化するのが当たり前になってしまい、後ろめたいという気持ちも起こらなくなってしまう。

そこまで善悪の感覚が麻痺してしまうと、あらゆるシチュエーションにおいて


自分をごまかす


 という行為に、何の迷いも疑いも持たないような思考回路が固まってしまう。
同時に、どこまでが自分の奥から出てきた声で、どこからかが【他者から刷り込まれた内容】なのか、線引きする能力も衰えていってしまう。
善と悪。
自分の願望と他者の願望。
これらの区別がつけられないのであれば、人生が徐々につまらないものとなり、 生きる喜びを味わうことも難しくなっていくに違いない。


かくして、

自分は悪くない。自分は可哀想。
こんなひどい目に遭わされたからには、見返り貰わないと割に合わんわ。

といった発想にすぐ逃げ込みたがる【自分が一番かわいい!】ナルシシズム/自己愛人間が作られる……。
キャロライン・メイスによると、そういうことだ。



アメリカ人はどうだか知らないけど(高い離婚率と何らかの関係はあるのかも)、日本人って、それほど親しくない人々との付き合いにおいては、別に嘘をつく必要が無い場面においても「プチ嘘」を安易に連発する大人が多いように思う。
社会全体の流れとして「嘘をつく」ことへの抵抗が年々薄れつつあるような、そんな気がしてならない。



たとえば...



「今度またお茶しましょうねー♡」みたいににこやかな顔して平和的に別れを告げたすぐ後で、


「Pさんってさぁ、自分がX大学出身っていうこと鼻にかけてて、いちいち学生時代の話持ち出してきて、ちょームカつく!旦那もT大出だって、自慢気に言ってたよ〜。」 
[※実はこれ、以前ランチした時にPさんを追い詰めて無理矢理引き出した情報なのだが、ここは自分を悪者にしないためにもしれっと脚色。かくしてプチ嘘は生まれる。]


...なんて具合に、周囲の女子軍団にネガキャン(ネガティブキャンペーン)しまくる腹黒ママとか腹黒同僚。
あなたの周りにもいるでしょ。きっと。


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こういう「プチ嘘」は、「プチ」でも何でもない、れっきとした嘘。
「プチ」なんて矮小化するような言葉で飾るべきではないよね。


どうも日本人って、欧米のキリスト教文化と比較してみると、「嘘をつくことは罪である」との意識があまり強くない民族なのかもしれない。
一神教文明に特有の「神は 見ていらっしゃる」という視点が欠けている上、その神に代わって「他人の目」「世間」がもっぱら幅をきかせる、という、よく考えてみると 「何だかな〜」な状態がわれわれの社会ではずっとデフォルトとされてきた。


「バレなきゃいいんだ」式の嘘や偽装工作がはびこりやすい社会、と言える。


物事の判断基準を「他人の目」「世間」に頼る、ということは、その他人やら世間やらが全体的に劣化していけば、自分も一緒に劣化していく、ということを意味する。


 最近の芸能人や政治家のズレまくった言動をワイドショーなどで見て、
「あ、有名人もこういうことしてるんだ。だったら、自分がやっても何ら問題は無いよね?」
といったおかしな勘違いをする人たちも、実際に増えているのかもしれない。
それは善か、それは悪か、と、冷静に自問自答できる人が減りつつある、ということでもある。


1980年代にビートたけしが放った「赤信号、みんなで渡れば怖くない」。
あれって、昔も今も変わらない日本社会が持つ病(=個々人における、罪意識の希薄さ)のど真ん中をグサッと突いたスゴい一言だったんだなあ、と今更ながらたけしさんの才能には脱帽だ。



そうした悪しきベクトルをググッと逆方向へと向けていくのは、なかなか骨の折れる仕事となりそう。
キリスト教やイスラム教社会のように、道徳的・宗教的な縛りもこれといって無いし、われわれの祖父母の世代が聞いていたような「閻魔様に舌を抜かれる」との説を真に受ける人もほとんどいないのが、今の日本だから。
こんな調子では、ますます「嘘つくのはダメ!」という良心の声が通りにくい社会になっていくのではないだろうか。
そうなると、自分に甘く、自分を憐れみ、都合悪いことは全部自分の外へと丸投げする【自己愛人間(ナルシシスト)】がうじゃうじゃと増殖してくるのも、まぁ、当然と言ったら当然なのかもしれない。




同じ間違いを犯したとしても、


「こんなの大したことないさ」と現実から目をそらし、結果的に自分を甘やかす。

「過ちを犯したのは事実。でも、大切なのは立ち直ってからどういう生き方をするか、だ。前へ進もう。」と、自らの非を認めた上で自分に許しを与える。


甘やかしと、許し。
一見、似たもの同士のようではある。
だが、両者を隔てる溝はグランドキャニオンよりも長く、そして、深い。



自分の責任を全く認めようとしない前者と、責任逃れをしないで後始末をきちっとしようとする後者。
この二つをごちゃ混ぜにしてしまう人間たちが、現代のアメリカをはじめとした豊かな西側諸国にはあまりにも多すぎる。
特に「ニューエイジ」「スピリチュアル系」「精神世界」「ヒーリング」と称される業界やコミュニティに吸い寄せられるような人々にその傾向が強く見られる。
キャロライン・メイスはそう指摘する。

くぅーーーーっ、耳が痛いぜぃ...。


さて、そろそろ残るCD3枚分に戻ろう、っと。

キャロラインおばちゃんにビシバシ叱咤激励されて来るとしましょうかね。
ちょっとやそっとでヘタっているわけにはいかないのですよ。
良薬は口に苦し、です。
(あらまぁ、実はドMだったのか、私は!)

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