2016/06/08

「エマ」〜ジェイン・オースティン流、【シャドウ(影)ワーク】入門編。【後編】

長くなってしまったので、前・後編に二分割しました。
前編はこちらからどうぞ。


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私は未読なのですが、こちらの中野康司さんによる現代的な訳の方が読みやすい、という方は大勢いるようです。Kindle版にもなっていますし。

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以下の部分にはネタバレが含まれています。まだ「エマ」を読んだことがない、映画/ドラマも見たことがない、という方、くれぐれもご注意ください。






まず、ベイツ老嬢の方はといいますと、体が悪く、BBCの2009年版では耳が悪いばかりか、ほとんど無反応のままただ座っているだけの年老いた母親を世話しながら、貧しい暮らしをしている。
地元・ハイベリーの村のいろいろな噂を聞いては、ペラペラ、またペラペラ...といった調子で、間断無くしゃべり続けるその姿は、哀れさを通り越して滑稽という域にすら到達している。(だからエマも、ボックス・ヒルのピクニック場面で、ストレスが最高潮に達した時にふと魔が差し、ベイツ老嬢に当てこすりを言って傷付けるという失敗をやらかしてしまったわけです。)


経済的には天と地程の格差があるエマとベイツ老嬢。
一人は大邸宅に何不自由なく暮らし、一生裕福に暮らせるだけの財産が約束されている若きお嬢様。
もう一人は亡き田舎牧師の娘で、明日の食べ物にも困る程の貧しい暮らしを余儀なくされ、しかもその苦しみがいつ果てるとも知らぬまま生き延びねばならない、哀れな老嬢。
しかも、今後結婚相手が現れて苦境から救いだしてもらえるなんて希望なんて、限りなくゼロに近い。




(こちらは1996年映画版。このベイツ老嬢、好きなんですよ。エマ・トンプソンの実の妹・ソフィー・トンプソンの、中身は空っぽなんだけど、決して悪気は無いのよ、って感じのマシンガントーク、最高!
ちなみに横の母親・ベイツ夫人を演ずるのはこれまた彼女の実の母フィリダ・ロー。芸能一家なんだな〜。)



二人には共通点もあります。


最初のうちこそ友人・ハリエットに対し、「私は結婚なんてしないの。だって、必要無いから。」と誇らしく独身主義を宣言していたエマですが、物語の後半で、いつも身近で見守ってくれていたナイトリー氏を異性として意識始めるにつれて、そんな強がりは上辺だけの、本心に根ざしたものでないことが誰の目にも明らかになってきます。
もし、ナイトリー氏がエマではなく、ハリエット、もしくは他の女性を生涯の伴侶に選んでしまったら・・・???



その場合、エマには


誰にも顧みられることのない
哀れな老嬢


として、ベイツ老嬢と似たり寄ったりの、寂しい運命が待ち受けています。
ある日突然、自分にふさわしい相手がどこからともなく降って湧かない限りは。田舎の小さなコミュニティであるハイベリーではそんな奇跡、いくら待ったって無駄でしょう。
(まぁ、お金の苦労が無い分だけ、エマはまだはるかに恵まれているのですけど。)
病持ちの老親とたった二人、狭い世界に閉じ込められた状態で、来る日も来る日も変化の無い毎日に耐える。親が他界したらしたで、介護からは解放されるものの、今度は広い屋敷にポツンと一人残されるという孤独と戦わなければならない。(身分の上下にうるさいエマのことですから、家の中に使用人が何人いようと「一人ぼっち」としか感じられないはずです。)
明るく社交好きで、機知に富んだ会話を楽しめる彼女にとって、これは考えただけで鬱になりそうな最悪・最凶シナリオ。
絶対に実現して欲しくはないはずです。



「ハートフィールド大邸宅に住む、ハイベリー村の女王蜂」として輝き続けなければいけない星の下に生まれたエマ。
そこまで悲惨な境遇に落ちぶれることだけは何とかして避けたいものです。
が、全てはナイトリー氏の気持ちひとつ、つまり、配偶者の選択にかかっています。
もし彼が、別の人と結婚することを心から願っているのであれば、もうアウト。彼女としては為す術は何もありません。
今まで好き放題、勝手放題に自分の願いを通してきたエマにとって、これは実にしんどく、耐え難い状況です。


最終的にはナイトリー氏と無事、相思相愛になれて良かったですけどね。
そうでなかったら、プライドばっかり高くって、目も当てられないような「イタ過ぎる金持ちおばさん」となっていたかもしれませんよ。エマ・ウッドハウス嬢。



そして、もう一人の【シャドウ】(影)とされたのが、オーガスタ・ホーキンズ=エルトン夫人。
身分の違いもわきまえず、図々しくエマにのぼせ上がっては直接馬車の中でアタックし、見事フラれてしまったエルトン牧師にお似合いの、上昇志向だけは人一倍だけど、どうあがいても言動のあちらこちらから「お里が知れ」てしまう、エルトン夫人。
渋り続けるジェイン・フェアファックスに自分が家庭教師の口を紹介してやるから、としつこく迫るなど、仕切り屋としてはかなりのハイレベル。(要するに、やな女ってこと。)
その根っこにあるのは、他人の人生をコントロールして優越感に浸りたい、という欲望です。



こんな女性ですから、自ら進んで学び、教養を高めよう、人格を向上させよう、なんて殊勝な気持ちは一切持ち併せていないでしょうね。言わずもがな、です。村民の模範として振る舞うことを期待されているはずの、牧師の奥さんなのに、全く...。(←まぁ、ああいうダンナさんだからこういう奥さんが...ってことになるのかな。お似合いのバカップルなんでしょう。)
「自分の周囲半径3m以内には入れたくない女」。
エルトン夫人には、こんなキャッチコピーを進呈したいと思います。




このオーガスタ・ホーキンズ=エルトンって、「どこかで見たような気が...」って現代の私達にも思わせる、ある意味時代を超越した普遍的な女性像だと思いませんか?
今で言えば、こんな感じになるでしょうか。

【全身ブランド物で固め、美容・アンチエイジング命。 
多額のローン背負ってでも高級外車を運転し、家賃の高い流行のエリアに住みたがるようなマダム。雑誌「V」の熱心な愛読者。子供は全員小学校から有名私立一貫校(少なくとも、そういうところに入れるための努力は惜しまない)。自慢のだんな様はと言えば、一部上場大手企業勤務か、それか医者や弁護士といったステイタス感漂う職業の人。
実家は白金とか田園調布といったセレブなエリアだと公言しているのだけど、ホントは微妙~~~にそこから距離のある、もう少し庶民的な地区だったりする。あ、実家の親の職業は絶対内緒ね。周囲のママ友には口が裂けても教えない。人から聞かれて話題にするのは専らダンナの実家の華麗なる人脈と、優雅な暮らしぶりのみ。】


「現代版・エルトン夫人 in 東京」。
いますよね。こういう、上昇志向に憑依されてしまったような生き方をする女性。私と同世代の、バブル経済の頃にちやほやされすぎた人達には、特に多そうだな。







なるほど。
確かに、彼女、エマの【シャドウ】(影)として、ハイベリーに来て間もない時期から「嫌な女」っぷりを遺憾なく発揮しまくっていますね...。知り合って日の浅い、しかも彼女達よりも明らかに身分が上のナイトリー氏を「ナイトリー」と呼び捨てし、対等な友達扱い。(要するに馴れ馴れしいのね。)
これには、エマもすっかり呆れ返ってしまい、凍りついてしまいます。夫妻と別れた後、ようやくふつふつと怒りがこみ上げて来て、相当ご立腹のご様子です。
人が初めて自らの【シャドウ】(影)と対面する時には、必ずや怒り、不快感、嫌悪感が伴う、ってよく言われます。
この場面では、その様子が非常にクリアーに現れていますね。



ベイツ老嬢とエマが経済的な面で大きく異なっているのと同様に、エルトン夫人とエマとの間にも、やはり大きな違いがあります。
裕福な商人の家出身で、多額の(エマや姉・イザベラのそれには到底かなわないまでも)持参金と共に嫁いできたエルトン夫人は、経済的な差はそれ程目立たないかもしれません。
しかし、エルトン夫人の元々の社会的な身分や、育ちの良し悪しといった部分は、エマとは比べ物にならない程、「劣った」(←あくまでも作者・オースティンからのとらえ方ですが)ものでした。


忘れちゃいけません。
エマの中にも、彼女が軽蔑しているエルトン夫人と瓜二つな醜い部分、しっかりあります。むしろ、物語の女主人公(ヒロイン)としては、「あり過ぎ」の部類に属する方じゃないでしょうか。
そうした醜い部分が自分の内側に存在することを認めたくないから、外部の人間の嫌な部分にどんどん投影していたエマ。物語の最後の最後まで「卑しい女。あんな醜い部分、私には無いもん。フン!」と、エルトン夫人を蔑むばかりで、自分にも同じような卑しい要素がわんさかあることは頑として認めようとしませんでした。
否定すればするほど、目を背ければ背けるほど、むくむくと大きさと力を増してモンスター化していく。気が付いた頃には、もはや制御不可能な域へと達してしまっている...。
それが【シャドウ】(影)の真の恐ろしさです。



人間のあらゆる心の動きを熟知していた賢いジェイン・オースティンのことです。



「人が心の奥底に押し込んで、『なかったことにしちゃおう』と目を背けるような事柄は、本人の予想もしなかった形である日突然、こっちの都合などお構い無しに現れ、人生を狂わせてしまうようなダメージを与えることがある。」



彼女は、人並み外れた観察力でもって、このような人間心理のからくりに気付き、いつの間にか自分独自の人間論へとまとめ上げていたのではないでしょうか。
19世紀の初めに亡くなり、【シャドウ】(影)などという20世紀以降の心理学用語などは到底知る由もなかったオースティンですが、でも、彼女がたどり着いた結論は、現代人の言う【シャドウ】(影)に関する理論とほぼ一緒ではないでしょうか。
私にはそう思えてなりません。



エルトン夫人と特に関わりの深い、エマの【シャドウ】(影)的行動、見ていくとしましょうか。



まず、白いキャンバスのように純真無垢で、あまり物を知らない年下の女学生、ハリエット・スミスをゴダード先生の女学校からエマ自らスカウトしてきて、無理矢理「親友」へと仕立て上げてしまったこと。
家庭教師を長年務めていたテイラー嬢が、近所に住む名士・ウェストン氏の後妻となった(エマの尽力のおかげで!)ことからぽっかりと空いてしまった心の空洞を一刻も早く満たしたいがための、やや軽率な行動でした。
これ、エルトン夫人のジェイン・フェアファックスに対する執拗な「私達、親友よね~!」アピールと鏡像のようにそっくりそのまま対応しています。



また、ハリエットと、彼女が夏の間にホームステイしていた農家の長男・ロバート・マーティンの間に「親友(という名の、指導者)」ヅラして割って入り、二人の仲を瞬く間にぶち壊したのは、紛れも無く、エマ。
ナイトリー氏が「彼は好青年だ」との太鼓判を押しているにも関わらず、「農民だからダメ!」と、ハリエットから見た身分ではなく、あくまでもエマ目線から見た身分の違いをやたらと強調し、手紙の書き方だの、しゃべり方だの、本の趣味だの、悪口言いたい放題だったのも、エマでした。


しかも、本来、純粋で、周囲の人々をあるがままに受け止める素直な心の持ち主だったハリエットに、


「私、もっと高望みしたっていいんだ。志は高く持たなきゃ!」
(=早々とロバート・マーティンで妥協せず、もっと社会的地位の高い人を選ばなくっちゃ。そうすれば、エマ・ウッドハウスお嬢様のレベルにまで上がることだって夢じゃない!)


という分不相応な野心を抱くようにと教唆したのも、やはり他ならぬエマでした。
昔から「シンデレラ願望」というのは洋の東西を問わず、どこの女性達の間にも見られるものではありますが、でも、父親の素性は一切明らかにされていない私生児・ハリエットにとっては、これ、いささか無謀過ぎる野心です。
ロバート・マーティンはその辺りの複雑な事情も充分に理解した上で、愛するハリエットと一緒になりたい、とプロポーズしてくれたというのに。(最終的に二人は結ばれて、収まるところに収まりました。良かった。)
この辺りの場面では、「仕切り屋(しかもヘタクソ)・エマ」の一番嫌な部分がこれでもか、これでもか、といった調子であらわになっていましたよね。


彼女は、エルトン夫人の事を「下品な女」とバッサリ切り捨てていますが、自分がどれだけひどい口調でロバート・マーティンをけなしているか、どれほど冷酷に彼の誠実な愛情を弄んだかについては、少しも罪の意識を感じていません。



そうした生身の人達の、生身の感情よりも、エマは「ハリエットとエルトン牧師との縁組」という、彼女が勝手にこしらえたプロジェクトの成功を優先しました。
ただ、自分の「優れた」判断力と支援によって、他人の人生が大きく変わった、という大手柄が欲しかったがために。
自分よりも「下」の人々の心や感情については、「一切考慮の必要無し」と勝手に理屈づけ、いともあっさり無視し、闇に葬り去ってしまいます。
ロバート・マーティン、ハリエット、そしてベイツ老嬢といった自分より「下」とみなした人々へ向けられた数々の無礼な発言や振る舞いも、全て彼女の中では「無かったこと」扱い。都合の悪いことはとにかく心のゴミ箱へとポイポイ放り込まれていたのですね。
良心の呵責なんていちいち覚えてられません。



これ、まさに【シャドウ】(影)から目を背ける人にありがちな行動です。


合言葉は、「私は悪くない。悪いのは、あの人たち。」



幸い、エルトン牧師について自分が下していた人物評価がいかに間違っていたかは、程なくしてエマの目にも、そして、ハイベリー集落の誰の目にも明らかになります。
自分の勘違いからハリエットを深く傷つけてしまい、「外れナシ」と自信を持っていたはずの判断能力もこれまた大外れ、という大失敗にはさすがのエマも懲りたようです。
「もう縁結びはしない。」と、しばらくの間は反省モードへと入ります。
...しばらくの間は。



でも、読者/視聴者にはしっかりと伝わっているんですね。
あの、ボックス・ヒルへのピクニックの日、大好きなナイトリー氏に厳しい口調で指摘されるまで、そしてハリエットが事もあろうに、エマが慕っているナイトリー氏を恋していることが判明するまで、エマの「縁結び/マッチメイカーmatchmakerとして、他人の人生を自分の思い通りに操りたくってたまらない」という厄介な癖は完治しなかったんだ、ってことが。


いつも明るく、深刻に悩んだことなどこれまで全く無かったエマ。
その彼女が自分の愚かさ加減にようやく気付き、激しく揺さぶられる場面が、物語終盤部分でようやく訪れます。
オースティンの筆致は、「ハイベリー共同体の頂点に君臨する女王様」だったエマのプライドが木っ端微塵に崩れ去る様子を、実に冷静に、まるで自らが体験した痛々しい過去の出来事であるかのように、描いていきます。


「どこへいっても、どんな姿勢をとってみても、心にのぼってくるのは、
自分の行為はきわめて愚劣だったということ、きわめて屈辱的なまで他人に騙されていたということ、いやそれ以上に屈辱的にも、自分で自分を騙してきたのだということ、 
自分はみじめであり、たぶん今日という日はそのみじめさのはじまりにすぎぬことになるだろうということ、などだった。
(前掲書、p.607...改行・強調は引用者による。)

生まれてこの方、自分の言動や、考え方を全面的に肯定してきた人間が、一転して全面否定へと落ちていく瞬間。
似たような出来事を経験したことのある人ならば、それがいかに大きな人生の転換点と成り得るかは、痛いほどよくわかるでしょう。


これ以降、エマは自らの【シャドウ】(影)を、自分以外の誰かさん(ベイツ老嬢、オーガスタ・ホーキンズ=エルトン夫人)というに外部の大型スクリーンに投影し、彼女らを忌み嫌っては悪口を言うという愚行を止め、真剣に自分の内側を見つめ始めます。


「自分の心を理解し、徹底的に理解するということが、まず最初の努力だった。父に気をつかわなくてもいい、ひまな瞬間はいずれも、われ知らず心が休息している瞬間はいずれも、その点へと向けられた。」 
(同、p.607)


まぁ、この文章の最初に既に種明かししてしまった通り、エマは自分の嫌な面・愚かしい面を徹底的に見つめるという困難な仕事(最近流行りの言葉で言うと、「シャドウワーク」ですね。)に全身全霊で取り組み、ひとまずの成功を収めます。(人間やってる限り、シャドウワークに終わり/ゴールなんてありませんからね!)
そして、以前よりも自分、そして周囲の人々を大切に出来る大人の女性へと生まれ変わります。


で、めでたく意中の人・ナイトリー氏と両思いであることが判明。二人は無事結婚し、幸せに暮らしましたとさ...と相成ります。




この場面の直前、ナイトリー氏の愛の告白場面は必見ですよ。ぜひ、ぜひ、DVDを借りるか、買うかしてご覧になってください。
まぁ、YouTube上で見られないことはないんですけど。大声ではおススメできませんが、検索すれば簡単に見つかるはずです。英語版オンリーですけどね。



でも...


あの場面で、ナイトリー氏が見せてくれる、仔犬のように不安そうな、キュン死指数MAX+針振り切れ!!!なプライスレスな表情(と、それを見る度味わえるしあわせ感)を我が物とできるのであれば、数千円のお値段は全然高くないっ、と私は強く断言いたしますです。
ジェイン・オースティン作品が好き、あるいは興味がある、というあなたならば、作品を観たらきっと同意してくださるものと確信しています。




これはもう、一家に一枚の永久保存版モノですよ。





見終わった後、ナイトリー氏を演じるジョニー・リー・ミラーについて調べてみたんですが...。


びっくり。


20年前に劇場公開と同時に見たジャンキー映画(笑)、「トレインスポッティング」で主役のユアン・マグレガーの仲間の一人・Sick Boyを演じた彼。
あの男の子と、今回のナイトリー氏が同一人物だ、とわかった時には、思わず椅子から転げ落ちそうに...。
しかも、彼、主要キャストで唯一のイングランド人なのに、めちゃめちゃスコットランド訛りがうまいんですよ。
耳が素晴らしくいいんでしょうね。
あそこまで見事に訛られると、絶対に「地元民」だろーとしか思えません。
騙されます。

真ん中の彼です。




まぁ、何はともあれ...

やっぱり

ジェイン・オースティンは


私にとっての





でした。(Jane Austen is my God.)

P.A.様にとっての神がリヒテルだったのと同じように...。

死ぬまで何度も何度も読み続け/見続けたい作家です。
尽きることのない楽しみを与えてくれる本がいつも傍にある。



何て幸せなことでしょう。

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