2016/05/23

月は蠍座にありて、影深く【2】(Blame it on the Moon in Scorpio)



ショパン・リサイタル



ポーランドの首都・ワルシャワにあるショパン音楽アカデミーの学生だったあなたが当時アクセスできたのも、旧ソ連邦や、ソ連の衛星国である東欧の音楽家による音源がほとんど。
グレン・グールドは早い時期からご存知だったようですね。グールドが米・英といったソ連と直接冷戦状態にある大国ではなく、カナダ国籍のピアニストということが幸いしたのかな。それとも、フランス滞在中に既に知っていらっしゃったのでしょうか。


それにしても、在学中、スヴャトスラフ・リヒテルという百年に数人レベルの天才ピアニストに出会い、実際に対面するチャンスが得られたP.A.様。本当にラッキーでした。
(日本語には「運も実力のうち」という表現があります。でも、幸運の女神って、コツコツと実力を磨いてきた人にしか微笑まないものです。私も、この年になってようやくそんな簡単な真理に気付きました。)




この曲はこういう風に弾いて欲しい、という願いがそのまんま形になった名演奏...


1980年代のポーランドには、「旧ソ連邦や共産圏の音楽家以外は、原則的に禁止」という厳しい現実がありました。だから、十代の子達が英米の大衆音楽を聴くだなんて、もう、とんでもない。言語道断です。
特殊な闇ルートでも使うか、はたまた政府のお偉いさんの子女特権でも使うかしない限り、いわゆるロックやポップスといった音楽は大半のティーンエイジャーには手の届かない、遠い世界だったに違いありません。


当時のポーランドの雰囲気を物語る小話があります。
私の年上の友人・マミさんの体験なのですが。
彼女、1985年頃、ロンドンからモスクワまでたった一人で鉄道旅行に出掛けたんですね。
列車がポーランド国境に近付いて来た時、彼女は、車内で知り合った黒人のお兄ちゃんに、
「どうせ国境のところで没収されちゃうから、あげるよ。よかったら、読んで。」
と、ティーン向け英音楽雑誌”SMASH HITS”の最新号20冊程をまとめた分厚い束を託されてしまいました。
「要らない」とも言えず、雑誌の山を受け取ってしまったマミさん。
彼女の困惑もよそに、お兄ちゃんはさっさと次の駅で降りて行きました。


1980~90年代のスマッシュ・ヒッツ誌。大昔の「明星」「平凡」みたいな芸能雑誌のノリ。


雑誌をくれたお兄ちゃんの読みは見事に的中。マミさんは、ポーランド国境で現れた入国管理官に「これは密輸目的か。云々。」と、厳しく詰問されることになります。
「前の駅で降りた人からもらっただけ。密輸するつもりなんて、全く無かった。」と反論したところ、その職員は「返して欲しければ、再出国時に☓☓☓の窓口へ出頭すべし.…云々」と言って雑誌の山を取り上げました。引き換えに、仰々しいお役所言葉で書かれた一枚の書類をマミさんに渡し、去って行ったそうです。もちろん、彼女は引き取りになど行ったりはしませんでしたけど。
(幸い、モスクワからの復路では何のおとがめもなく国境を通過できたそうです。)



当時の少年少女たちにとって、ポーランドがどれだけ窮屈で、自由の少ない国であったかが容易に想像できるエピソードです。
お父さんの転勤に伴い、フランス・ストラスブールからフランス語ペラペラの「帰国子女」となって約7年ぶりに戻ってきた14歳の少年の瞳に、故国ポーランドは、そして故郷の街・ワルシャワは、一体どんな風に映ったのでしょうか。



どこでだったか思い出せないのですが、前にあなたがこう言っていたのを覚えています。

「ポーランドは二度、凌辱された(Poland was raped twice.)。
一度目はナチスドイツに。二度目はソ連に。」


一度目のナチスドイツによるワルシャワ旧市街の爆撃、罪も無い一般市民の虐殺やユダヤ系市民に対する迫害は、誰もが認める残忍極まりない「凌辱/レイプ(rape)」そのものでした。
宗教や文化を異にする多民族が暮らすコスモポリタン都市・ワルシャワは、二度の対戦を経た後、あなたの言葉を借りるならば「かつて存在していた、ワルシャワという美しい街の亡霊」へと化してしまったのです。



Piotr Anderszewski: Unquiet Traveller [DVD] [Import]



映画"Unquiet Traveller (邦題「あるピアニストの旅路」)からの一場面。
ポーランド語はわからなくとも(ええ、私、全く意味わかりません!)、戦前のワルシャワの生き生きとした市民生活や、美しい建物群の姿をとらえた白黒フィルムを見れば、第二次世界大戦によって失われた文化遺産がどれほどのものであるかは一目瞭然です。




そして、二番目の加害者となってポーランドを再び虐げた国、ソ連。
(ポーランドは、その長い歴史を通じて幾度もロシアからの侵略に苦しめられていたので、人々はきっと「また、あの悪夢が甦った」といった感じでおのれの悲劇的な運命を受け止めていたに違いありません。)



周囲の建築様式や景観の釣り合いといったものを一切無視するかのようにそびえ立つスターリン様式の巨大な「文化科学宮殿」を見れば、共産主義国家・ソ連がどのような形でワルシャワ市民の心を踏みにじり、ポーランドという国全体を支配していったかがよくわかるでしょう。
自分達の都合のいいように、自分達の最高権力者の名前(ヨシフ・スターリン)をつけたビルの建築を一方的に強行しておいて、「これはソ連からポーランドへの"ギフト(贈り物)”なんだ」と言い張る辺りに、超大国であるソ連指導者層の傲慢さがよく表れています。
上の映画の中でも、P.A.様とお友達がちらっと会話の中で触れていましたよね。「ここからの眺めなら、まぁ、我慢できなくもない」といった感じで。
(ビル、手前の建物群に隠されてしまって、ほとんど先端部分しか見えていませんでしたよね...。)





1989年。
ベルリンを真っ二つに隔てる壁が崩れ落ち、いわゆる「東西冷戦」の時代は終わりました。
それから時代が下ることおよそ15年。2004年、ポーランドも他の東欧諸国にやや遅れを取りながらも遂にEUに加盟し、名実ともに西側の、自由主義経済圏への仲間入りを果たします。

そして、東欧の民主化が急ピッチで進められていた1990年。
リーズ国際ピアノコンクールのセミ・ファイナル審査...つまり、あと1回勝ち抜けばファイナリストに、という段階...まで進み、最優等賞は目前との下馬評にも関わらず、「曲の出来に不満足だから」と、そのまま会場を飛び出し、大いに話題を呼んでしまったP.A.様。
でも、この大騒動がきっかけとなり、翌91年にはロンドン・ウィグモアホールにてソロデビューを飾ることとなります。
こうして、P.A.様は、まだ政情不安定だったポーランドを後にされ、本格的に西側の国に拠点(最初はロンドン、次にパリ、そして現在のポルトガル・リスボン)を移し、いよいよコンサート・ピアニストとして世界中を飛び回る日々を送られることとなりました。


ブラームス : ヴァイオリン・ソナタ 第1番 ト長調 作品78「雨の歌」
1995年。月曜朝、コンビニに行くと、
少年ジャンプとおにぎり買いに来たこんな感じのお兄さん、いそうです。
どう見ても肉食系女子力全開!!!なバイオリニスト・
ヴィクトリア・ムローヴァと組まされ...
おっと失礼、組んでいたとは。


去年夏、オーストラリアの新聞に掲載されたあなたのインタビュー、とても興味深く読みました。



あなたが長年抱き続けている内面の葛藤。
いかんともし難い【疎外感】という厄介な感情
−−−自分自身がどうしようもなく、outsiderであるという感じ---
が、くっきりと浮かび上がっていて、読む側の心の深い部分にじぃぃ...んと共鳴するような、そんな印象的なインタビューでした。


人は普通、自分の「孤独」についてはあまり進んで他人に語りたがらないものです。
だって、「孤独な人」であることを認めてしまうと、それだけで他人からは「哀れな人」「みじめな奴」と、一段下に見られる恐れがありますから。
誰だって、人から見下されるのだけは避けたいんです。
それでもなお、自らの「孤独」について、等身大の自分をさらけ出して語ってくれたのが、自分にも、他人にも正直に向かい合って生きる、Piotr Anderszewskiという人。
ますますあなたのことが好きになりました。

7歳の時、一家はパリに引っ越す。(「フランス語はネイティブ並みに話せるよ」) 

ワルシャワの音楽高校に入学したのは14歳の時であった。「でも、プロになるつもりは全然無かったんだ。ただ、結果的にそうなってしまっただけ」

彼は言う。「後悔はしていない。でも、孤独な仕事だ」

とはいえ、孤独にも、居場所の無さといった感覚にも、今ではすっかり慣れてしまったようだ。ポーランドとハンガリーという二つの全く異なる背景を持つ両親の元に生まれ、かつてはパリ、現在ではリスボンに居を定めながら、コンサートツアーのために否応無しに世界中を飛び回らねばならない彼にとって、これは止むを得ないことなのだ。


「根無し草みたいな生き方だなって、よく思うんだ」と、と語るアンデルシェフスキ。

「ロマン主義者の一匹狼」と呼ばれることにさほど悪い気はしないようだ。「普通、ピアニストは自分一人で練習し、一人でステージに上がる。コンサートが終わって、いろいろな人と挨拶を交わすには交わすけど、それが終わればまた一人ぼっち。で、こんなホテルの部屋の中に一人いる、と。ものすごく孤独な仕事だよ。」

「仕事は好きだけど、きついと感じる時もある。あまりにも神経が細いようでは、押し潰されてダメになるだろうね。今までの経験から言って、この音楽稼業において最後に成功を収める『勝ち組』は、往々にして全然才能の無い人々だったりするんだ。僕も、自分の事は自分で守らなきゃ、と思っている。」
アンデルシェフスキはなおも続けた。 2011−2012に1年間の長期休暇を取った、と言う。休暇中はとにかく眠った。ヨガの滞在型講習会に幾度か参加したのを別とすれば、特にこれといった予定は入れなかった。
 
「あれが効いているんだと思う。今のところは、だけど。」


【訳者注: ヨガの他に、京都の禅寺での座禅体験も含まれているはずです...。】

読書(ヘルマン・ヘッセ、トーマス・マン)が好きで、今時の音楽については全く無知、と言ってはばからない彼。  

(「ビートルズは知ってる。でも、その程度。」)。

 モーツァルトの「魔笛」を聞くと、思わず涙ぐんでしまうそうだが、その様子は映画「あるピアニストの旅路 Unquiet Traveller/Un Voyageur Intranquille」でも見ることができる。

(上の部分を含むインタビューの抜粋和訳は、左側の「資料室」というコーナーに収めてあります。 リンクはこちら。↓↓↓
http://backtotheessencenow.blogspot.com/p/afj.html



私、どうしてこう何度もしつこく「P.A.様。」なんて、個人的な手紙のような文章書かずにはいられないんだろう、ってふと、考えましてね。
ついつい「P.A.様。」って呼びかけたくなってしまうのです。
アンネ・フランクが有名な日記の中で”Dear Kitty,"と呼びかけずにはいられなかったように。
それも日本語で。
いい年して、何バカやってんだろう、という声が耳元で聞こえないわけじゃないんですけどね。まぁ、それはそれとして...。




私が一方的にあなた宛の私信を書かずにはいられない理由はですね、



「ビートルズは知ってる。でも、その程度。」


インターネットにつながれば、過去の音楽も、動画も、何でも一瞬のうちに手元の画面で再生可能な21世紀の今、ここまで正直に、時代錯誤的(笑)な発言をしてしまうあなただったら、
【疎外感】というものが何なのか。
【疎外感を味わう人 outsider】として生きることがどういうことなのか。
多分、一瞬にして理解し、そして共感してくれるんじゃないかな...という気がするのです。
いちいち言葉で説明しなくても、わかってくれるんじゃないかな、って思えるのです。



これまでに西ヨーロッパ諸国で生活された中で、アメリカを中心とした西側文化圏で育った人々にとっては「あって当然」「知ってて当然」な物事で、旧共産圏のポーランド出身のあなたにとっては「何、それ。」という違和感を覚えたものがたくさんあったはずです。


違和感を感じるのは、何も「物」や「事」だけじゃないですよ。
いい感じで話が続いていた。みんなで和気あいあいと盛り上がっていた。
なのに、いきなり話の流れから弾き飛ばされた。
「何、それ。」と感じるあの瞬間って、ホントに嫌ですよね。
経験した人にはわかるでしょうけど。
別に誰かが悪意で仕組んだわけではないのだから、個人的に受け取っちゃダメだ、と、頭ではわかってはいるのです。
そういう場面では、「まぁ、仕方ないさ」と諦めるしかありません。
P.A.様がインタビューでもおっしゃっていた通り、少しは神経図太くしていかないと、ね。
いちいち傷付いて、うつむいていたりしては、まともに社会で機能できませんから。


ビートルズ以降の英米大衆音楽では、前回名前を出したプリンスや、マイケル・ジャクソンといった、80年代の欧米を席巻した大物ミュージシャン達も、あなたにとっては「何、それ」の対象でしかなかったはず。
そうした話題が出てくる度に、あなたは


「自分にはよく分からない。話が見えない。他の皆には、通じているのに。」



といった疎外感、やはり感じていたのでしょうか。
(それとも、クラシック一筋の人達は、そんな大衆の聴くような「くだらない」音楽についての話なんか一切しないのかな。
←いえいえ、そんなことは無いでしょう。西側のヨーロッパ諸国で音楽を学んだ複数の知人の話を聞く限り、皆、それなりに「イマドキの音楽」についても話はしていたみたいですよ。)



私の場合、自分の中で【疎外感】が最も刺激されるのは、ここアメリカでの日本人同士、特に同年代の女性達の付き合いにおいて、なんですね。
【彼女達】が良しと評価し、共有し、横のつながりを広げるきっかけとしているような物事。世界観。文化的な事象。
残念ながら私にはちっとも共感できないし、全然興味も湧かない事ばかり、でして...。


そもそも、私があの人達に向けて(たまーに)放つ言葉って、本当に彼ら/彼女らの耳に届いているのでしょうか。
・・・今、私が喋っていることに、この人達、ほんの少しでも興味抱いてくれるのかな。
それとも、「あー、何かよくわかんないけど、ごちゃごちゃと奇をてらったこと言ってるねー(少しは空気読めって。)」と、右から左にただ流されているだけなのかな。
もし、不幸にして後者のシナリオが真実に近いのだとしたら、自分がここまで場に馴染もうと気を遣って一所懸命にしゃべってきた内容も、努力も、全ては無駄になる、ってわけだ。
ただ、音が無駄に発せられただけ。
空気中へと無駄に放たれ、人の耳を無駄にかすめて、跡形も無く消え...。



そんなやり取りをするために、わざわざ人の輪の中に入ろうと、場に馴染もうと、嫌な気持ちを一所懸命に抑えて、ここまで努力してきたわけじゃないのに。
そう考えると、自分がだんだん情けなくなってくる。みじめでたまらなくなる。
何で自分、こんな人達の中にいるんだろう。
何で、こんな集まりの中に参加してしまったんだろう。
やっぱり来るべきじゃなかった。最初から気が進まなかったのだから。


ああ、一分でも早く、家に帰りたい。本、読みたい。音楽、聴きたい...。


「一人でいるのは好き。
一人ぼっちだと感じるのは、好きじゃない。」


日本人同士の会話だから、言葉が通じることは確か。
世代的にもそんなに離れていないし、年が近い子供を持つ母親同士だし、基本的な立ち位置というか、話のスタート地点はそれ程ひどくは離れていないはずなんですよ。
少なくとも、外見上は。
でも、そんな淡い期待を抱いていられるのも、おしゃべりモードへ突入するまでのほんのわずかな間だけ。
話が本格的に始まれば、すぐに裏切られ、失望感を味わうことになります。



待てど暮らせど、飛び交うのはどうでもいい雑談ばかり。
どこどこの店がおいしい。
その店の支店が今度、近所にオープンする。
可愛い店を見つけた。
誰か共通の知り合いがどうこうしたらしい。
何とかさんの参加しているパン作り教室に空きが出た。
いわゆる「ガールズトーク」の中年おばさん版とでもいった感じの話なんですよね。
私が本当に欲しがっている【中身のギュッと詰まった、密度の濃いコミュニケーション】とは、似ても似つかぬゆるい話ばかり。



「あなたは何が好きなの」
「どんな人の、どんな音楽を聴いてるの」
「私はこんな風に思っているけど、あなたはどう思う?間違ってたら教えて。」
「そういう見方もあるんだ。面白いね。」
「こんな新しい映画があって、これこれ、こういう理由で面白いから、見て!」


本当は、こういう小気味良い会話のキャッチボールを続けてみたい。
でも、そんな人は身の回りのどこを見ても、見つかる気配すら無い...。



そんな時にこそ、自分の中で【孤独】【疎外感】がムクムクと頭をもたげてくるのを感じます。
誰とも通じ合うことができない、という孤独。
「群集の中の孤独」ですね。



「周囲に誰もいないから孤独になるのではない。
自分にとって大切だと思える事柄について
話を通じさせることができないからこそ、
人は孤独になるのだ。」 
---C.G. ユング


P.A.様。
コンサートを終えてホテルの部屋に一人いる時以外に、あなたはどのような場面で【孤独】をお感じになりますか。
どんな人達と一緒にいる時に、一番【疎外感】を覚えられるのでしょうか。
そうした厄介な感情に巻き込まれてしまった時、どのようにしてそこから脱け出していらっしゃいますか。



いつか、こっそりとお尋ねしてみたいものです。



...なんと、この話、まだまだ続きます。

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