2014/10/03

タイプ違けりゃ、世界も違う。...〜相互理解のムズカシさ。

【エニアグラム】という性格論に魅了されて早、20数年。



詳しい定義や用語の説明は、上のエニアグラム研究所E.I. [日本]による解説ページを見てもらえばいいのだが、とりあえず「人間を大まかに9つの性格タイプに分類する」ってことが出発点となる。


各タイプ(タイプ1,タイプ2...以下同様)ごとに異なる物の見方や、
同じ状況に置かれた時に出るとっさの反応などを比較し、そこから人間的に成長していくにはどうしたらいいだろうか、を探る非常に奥の深い人間学である。 扱う素材が生身の人間、とあって、どこまでやっても「全部マスターした!卒業っ!」...とはならない。

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巨大な多面体であって、しかも多重構造と来ているのが、この世界。
唯一無二の解釈なんて、どこを探したってありゃしない。
観察する人の数だけ解釈は存在する。

歴史も、また同様。 
万人が納得する【決定版・THE歴史】なんて、ありっこないのだ。
(だから、ホロコーストや、南京虐殺や、慰安婦問題など、もろもろの「史実」にまつわる論争がいつまでも解決を見ないわけで...。)




一人の人物についての評価も、また然り。
知人の誰もが「あの人はああいう人だったわよね」と口を揃えて語るような、そんな単純な人間、どこにもいやしない。


人も、事物も、全ては「見る側の切り口次第」なのだ。
そこから何を読み取るか、どんなことを学ぶか、は、決して同じにはならない。 解釈者の数だけ解釈は存在する。

時々、家族や友人など、気の置けない人々を相手にお喋りしていると、こんな当たり前のことすらつい、忘れてしまう。
相手が漏らした意外な言葉にはっとさせられ、そして、目の前の相手が自分とは全く違う角度から世界を見ていることに気付かされ、言葉を失う。 今まで順調に流れていたコミュニケーションが凍りつく瞬間である。



相手とは、ほんの数秒前まで、同じ対象を見つめ、同じ情報を読み取っていると信じきっていた。
だが、私の両目が観察中のこの世界と、相手の世界とは、ひょっとしたらとんでもなくかけ離れたもの、なのかもしれない...。

【お互いに理解し合っているはず。】という、大いなる勘違い。 
くれぐれも用心しないと。  
だから賢人たちは言い続けてきたのだ。
人間関係に過信は禁物。相手に失望させられるのが嫌なら、最初っから期待なんてするな、と。

「きっと相手はわかっているさ。私がツーと言ったら、必ずあちらはカーと応えてくれるはずだよ。」

残念ながら、そう単純に行かないのがこの世の常である。 
「私たち、いつも一緒だもんねー!」と腕組んでトイレに入る中学生女子じゃあるまいし、そんな都合の良い人間関係なんて、中年過ぎのオトナにはまず縁がない、と考えた方がいい。
いい加減、目を覚ますのだ。

先日、長年の友人と雑談をしている時、我々二人の恩師であるX先生の近況に話が及んだ。
「あのさ、私、こないだご本人に確かめたんだけど、
先生、もうA.H.(歴史上の有名人。悪名高き...という枕詞が付くような人物。)
のこと、崇拝してないんだって!
A.H.は、もうX先生の神様じゃなくなっちゃったんだってさ。
びっくりしたよー!何がきっかけでそうなったんだろうね?」

すると、彼女、平然とした様子でこう返してきた。
「えぇー?
X先生のA.H.マンセーなんて、
単に生徒の笑いを取るための受け狙いでしょ~?
驚かないよ。最初っから冗談だとしか思ってなかったから。」
...え゛っ。
ちょっとちょっと、そっちこそ悪い冗談やめてくんないかなぁ
とっさにそう反撃したくなったが、ぐっとこらえて黙った。
これ以上引き伸ばしても、永遠に平行線だ。  
私と彼女がこの件に関して共通見解に達することはこれから先もあるまい。
だったら、余計な事言わず、口をつぐむしかないだろう。
性格タイプが、違う。
世界を切り取る切り口が、ここまで大きく違っていたとは。
よくも今まで気付かずに付き合ってこれたもんだ。
同じクラスで、同じ授業を受けて、同じ先生の話をずっと聞いてきたはずなのに、二人が抱いた【X先生像】はまるで別物じゃないか...。
私は軽い目眩を感じていた。

X先生に教えていただいていたのは、もう30年近くも前の高校時代になる。


当時の私からすれば、X先生は正真正銘の【A.H.崇拝者】だった。 
「アカ(共産・社会主義思想寄りの人)」上がりの教師も少なくなかった、当時の教育現場にありながら、先生は右だの左だのといった日本国内の政治運動にはそれ程関心が無いようであった。  
...だって、先生は【A.H.崇拝】という、ある意味日本国内のどんな極右・極左政治団体よりもはるかに危険な「カルト宗教」にどっぷりとはまっていたのだから。
とある男子生徒が「○○○がぁ~」なんて、先生の前でその名前(敬称略)を出そうものなら、先生は神妙な面持ちで「総統閣下とお呼びしなさい...。」と、すかさず釘を刺したものである。
(今、こんな話が明るみに出たらどうなるだろう。小うるさい保護者とマスコミが絶対黙っていなさそうだ。あーあ。めんどくさい時代だ...。ほんのちょっとの毒すら許容できない社会なんて、つまんないったらありゃしない。)
私自身、特定の人物・アイドルにすぐにかぶれて、のぼせて、崇拝しまくるという性癖の持ち主である。
それだけに、X先生のこの「あふれる教祖愛」は傍から見ていて愉快痛快でたまらなかった。

当時高校生だった私にとって、自分と同程度にぶっ飛んだ「天性の崇拝者気質」を遺憾なく発揮し、外野から何を言われ続けようと、ひたすらに我が道を進み続けるすっごい大人・X先生は、師匠であり、先輩であり、そしてヒーローであった。 高校時代、という人格の固まりつつあるこの時期に先生からから受けた影響は、実に大きい。


まぁ、A.H.が実際に行った極悪非道の数々の是非はさておくとして...。 
(とても擁護できるようなもんじゃないです。これは先生への敬意とは全く別物。)





私は自問せずにはいられない。 
友人が30年来抱いてきた「生徒へのサービスとして冗談連発していた」、つまり、【A.H.崇拝者】という特定のキャラを敢えて演じ続けていた、というX先生像。 
片や、私がこれまで30年近くにわたりあたため続けてきた、「熱烈・A.H.教信者」である、X先生像。 

果たしてどちらが本当のX先生の姿を正確にとらえていたのだろう?


考えれば考える程、自分の認知能力に自信が持てなくなってくる。もし、彼女が正しくて、私の方が完全にダマされていたのだとしたら、この三十年間の思い込みは一体何だったというのか?
…まぁ、そんなことは先生にいつか直接お聞きすればわかること。 これ以上考えるのはやめよう。  

それよりも今、大事なのは、むしろこちらの問いの方。  


【ここまで我々の『X先生像』が大きくかけ離れてしまったのは、 一体何が原因なのか?】    


二人とも、同じ時代を共有し、同じ環境の中で、同じ人物をずっと観察したはず。 
なのに、導き出された結論は何故、ここまで大きく違ってしまったのだろう。
まず、考えられるのは、「私と、友人とのエニアグラム・タイプの違い」。
性格タイプが違えば、同じ対象の見方も、その捉え方も、その後どのように反応するかも、全然違う。 
これはエニアグラムの基本中の基本。少しでもかじった事のある人なら、おわかりいただけるかと思う。   


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この友人、基本的には性善説世界の住民である。 
十代の頃から一貫して、「よかった探し」が得意な、いわゆる「ポリアンナ的気質」の人。
エニアグラムのタイプで言えば、タイプ9に属する。 





(ウィング=副次タイプは1で間違いないと思う。時々、1っぽい理想主義肌の側面が表に出てくることがあるから。)




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(表紙の女の子の表情、グッと来ますね。本当にいい子なんだよなぁ〜、幸せになって欲しいなぁ〜、って気持ちにさせられるでしょ?さすが岩波。ヘタに現代風にしないところがいいのです。)



人にはいつも優しく、働き者。 
平和を好み、おっとりしていて、聞き上手な人だから、どこにいってもうまく行く。   
家族のためにとことん身を粉にして尽くすような、「母の鑑(かがみ)」のような女性だ。  
一言で言って、「とてもよく出来た人」。 高校時代からずっと変わらない。
マメに手作りお菓子を焼いては皆に振る舞ったり、休日に早起きして家族全員分のお弁当を手作りして
子供達をハイキングに連れていったり...。
肩書だけは「母親」と付いている私も、彼女の献身振りにはホント、頭が下がるのみ。
もう一度人生やり直しして幼年期から再起動できるとしたら、ぜひ彼女のようなお母さんを!と望む人は多いんじゃないかな。
もちろん、私もその一人
こんな趣味至上主義のぐうたら母を持ったうちの子、貧乏くじ引いたんじゃないかな、って、時々思うもん。

いやはや、ホントに突っ込みどころが見つからないんだよなー、この友人って。

過去の付き合いを振り返ってみても、彼女が「絶対にこれがいいっ!あれは嫌い!ダメッ!!!」と、いった調子で自我を通そうとする姿は思い浮かばない。   たとえ家族や周囲の状況に対するマイルドな不平不満を口にすることはあっても、特定の誰かについて毒づくなんて、まず、考えられない。  
...少なくとも、私の前ではそういう姿は見せたことはない。
だから、いつも彼女と話すと、後味はとてもさわやか。 
その代わり、いささかの残尿感(…。)というか、「本音はさ、こんなもんじゃないんだけどな...」と、毒舌を抑え込んでしまったがゆえの、不完全燃焼感が残らなくもない。
(ただし、それは私自身のひねた性格に100%起因するもの。 彼女のせいじゃない。)

その昔、今に比べてはるかに血の気が多かった私は、彼女の「生ぬるい」「ポワワ~ン」とした言動によくイライラしていた。(これはご本人には内緒だ。) 
「熱いことはいいことだ!ドラマチックもいいことだ!」という誤った信念に毒され、何でもかんでもすぐにカーッと熱くなっていた、あの頃の自分。  
角の取れたまろやかな人柄、という彼女ならではの美徳が理解できるようになるまでには、それから更に20年程の歳月を要した。    
幾度かきっついお灸を据えられ、自分で転んで痛い思いをして、
「ああ、目指すべきは彼女がもう何十年も前から静かに座っている、あの境地だったか...。」と、ようやく最近わかり始めてきたところだった。
彼女は、どこまでも中庸・中道の人だ。
お釈迦様も「たいへんよくできましたで賞」をあげたくなっちゃうに違い無し、である。
こういう人って、高揚感や「最高ーーーーっ!!!」って絶叫したくなるような激情のほとばしりも無いけれど、逆に、深い谷底に落ち込んでもがき苦しむことも少ない。
だから、いつも精神的に安定しているように見えてしまう。
ま、ご本人にそんなことを言おうものなら、「そんなことないよ(ムッ。)...《こう見えても、実は色々あるんだよ!》」と、一蹴されてしまうのだろうけど。 
この友人と対極に位置するのが、X先生と私。
我々は明らかに「ナチュラル・ハイ!」を幾度となく経験している躁鬱ジェットコースター型だよな、と思う。 
ハイもあるけど、ローもしっかりあるでよ、ってなタイプ。 外からはわかりにくいかもしれないが。
楽しい時はいいんだけど、UPの波が途切れて、何かのきっかけで突如DOWN状態に突き落とされてしまうと、きついんだな~、これが...。(←そりゃ自業自得だろう。) 


先生が昔、授業中にちらっと話してくれたこと、今でもよく覚えている。  
1966年、ビートルズが来日した折、大のビートルマニアであったX少年は、残念ながら武道館公演(前座がバンド時代のドリフだった、というあの伝説のライブ。)のチケット争奪戦に敗れてしまった。


これだよ、これ↓。




一目でも憧れのビートルズを見たかった少年時代のX先生。
諦め切れずに、コンサート当日に夜行列車で地方からわざわざ上京した。 
残念ながらダフ屋からのチケットにすらありつけず、仕方なく会場の外に漏れてくる音をじっと聴くだけでその夜は終わってしまった...という。 いいなぁ、こういう話。音楽好きならば先生の気持ち、よくわかると思うな。   


そのような思い出話の数々、そして日常の言動から判断して、X先生は、間違いなく【崇拝者気質】のUP&DOWN型人間で、教祖が右と言ったら右へ、左と言ったら左へブンッ!と振れるタイプじゃないか、って私は見ていたのだが。  

ところが、件の友人にとって、先生はそういう人物とは映っていなかったらしい。 
...不思議だ。まったくもって、不思議でならない。


1960年代後半生まれの我々。
間もなく人生の午後三時(by C.G. ユング)に差し掛かる、あるいは既に通過中という世代だ。
これから年齢を重ねていくと、他人との認識のズレや、受け止め方の違いなんてーものに「...あらっ。」と妙な違和感覚える機会、どんどん増えていくような気がする。 


たとえ同年代の同性、同じ学校の卒業生であっても、これまでにどんな生き方をしてきたか、どんな人生を送ってきたは皆、バラバラ。
認知のフィルターだって厚くも薄くもなるし、また、曇りも濁りもする。 昔、仲良しだったと思っていた旧友と久々に再会しても「うわー、話、合わない...(絶句。)」
なんて場面はこれからますます出てくることだろう。
人の中にあってのどうしようもない孤独、ってやつをひしひしと味わうことになろう。
あまりにも弾まなかった会話の後、「人間関係、しんどい...」と、ため息つくこともあるだろう。


だからと言って、理解不可能、話通じない、と、コミュニケーションを簡単に見限って自分の殻に閉じこもるのでは進歩が無さすぎる。脳細胞老化に向かっての一本道驀進!となることは請け合いである。



相手と違う、自分。
自分と違う、相手。
違っていて、当たり前である。

他人と向き合った時、どうしても生じてしまう微妙なズレの部分は、「へぇ、面白い!そういう見方、するんだ〜。新鮮〜!」 てな具合に、熱帯雨林から運ばれてきたばかりの珍獣を観察するかのように、興味津々な態度でまるごと受け止めていけたらいい、と思う。 



違っているから、面白いのだ。
まずはそこに気付かなきゃ。 


ポリアンナ師匠を見習って、

相手が何を言おうと、一つくらいは良いこと見つけてホメてみよ】
っていう小さな一歩から始めましょうかね。


(おぉ!作詞・作曲が「♪もし〜も〜 あなたが〜」の歌い出しでお馴染み・「あなた」で有名な小坂明子さんっていうのが個人的にはポイント高し!!!←カラオケの「マイ持ち歌」なもんで...。)


ホドホドに、ゆるゆる〜程度でいいんだろうな。
でないと、溜め込んだストレスで逆に自家中毒症状起こしてしまうから。


ご利用は計画的に~。

3 件のコメント:

  1. 黒犬べーやんさんこんにちは!
    早いもので今年ももうあと三ヶ月、、
    なかなかご連絡が出来ず、すみません!

    文末の、
    ご利用は計画的に~。
    これ、関西ノリジョークだと思いましたぁ!笑
    上手いっっ!!と、めちゃ笑いました。

    今回のお話(ご友人との先生についての受け取り方が違っていた)
    そうでしたか~、
    それは、いささかもやもやする後味だったのではないでしょうか。
    ふと思ったのですが、ご友人は、中庸をいくタイプだから
    先生のことを『受け狙いだった』と捉え
    黒犬べーやんさんは、真実を追究したい、知りたい!と思うタイプだから
    先生のことを『他に何を言われても自我(いい意味で)を通す先生』と捉えた
    のかな~ と感じました。
    そもそも元来の見る地点が違っていた。

    私の周りにも、中庸をいく友人が数人居まして
    彼女たちは『決して落ちぶれない』 んですね~
    髪ふりみだして頑張ってる姿もみた事ないですし
    惨めな姿も見たことがありません
    でもその代わりだかなんだか、
    温かさを感じないんですね~
    無理なことにはチャレンジしないから
    取り乱したりしない優等生。という立派な肩書きがつくわけですが
    (努力しなくても出来ちゃうんですね、彼女たちは)
    向田邦子さんが
    わたしはどちらかというと負け犬のほうが好きです
    相手に一度や二度、かみつかれたことのある人のほうが
    思いやりがあって、好きです。
    という文を見たとき、深く共感し
    彼女たちは、かみつかれたことが無いんだな、
    というか、かみつかれることがないように生きているんだな
    と思いました

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    1. T.I.さん、こんにちは。お元気ですか。
      コメント、ありがとうございます。(こんな長文のひとりごとにお付き合いさせてしまって...恐縮です〜。)
      関西ノリジョークとのおホメの言葉、すんごく光栄ですっ!
      大阪人にそう言われると、うれしいなぁ。

      そう、全くもってご指摘の通りなんですよ。
      もやもや感が半端じゃなく(笑)、数ヶ月の沈黙を破ってつい、ネット上に「王様の耳はロバの耳ィ〜」ってぶちまけずにはいられない気持ちでしてね。
      文字にして、読み返すことで自分の中で、何とか落とし前付けたくって仕方なかった、というか。
      いやはや、さすがT.I.さん。バレバレでした...。

      ふと思ったのですが、ご友人は、中庸をいくタイプだから
      先生のことを『受け狙いだった』と捉え
      黒犬べーやんさんは、真実を追究したい、知りたい!と思うタイプだから


      そう、そこなんですよね。
      【中庸】、つまり、極度に右にも左にも、上にも下にも揺すぶられたくない、
      ざわざわと不穏な気持ちで脅かされたくない(=臭いものにフタ)、っていうのが
      彼女の基本原則になると思うんですよ。

      そうなると、、
      「えっ!? まさか、先生が本気であんな残虐行為を許した人物に惚れ込むわけ
      ないよね? 
      あれ、単なる『ネタ』だよね? 
      ...うん、うん。きっとそうだ。 『ネタだった』という結論以外にあり得ない。」
      という発想へと流れていったのではないかな、と。

      見る地点が違っていた。
      ほんとに、その通りですね。
      同じ景色を見る際、近視用眼鏡をかけて見るのと、乱視用眼鏡をかけて見るのでは、とらえた映像が全然違ってくるのと似ているかと思います。
      (どっちがエラい、どっちがマシか、って問題じゃないですよ。)


      私の周りにも、中庸をいく友人が数人居まして
      彼女たちは『決して落ちぶれない』 んですね~
      髪ふりみだして頑張ってる姿もみた事ないですし
      惨めな姿も見たことがありません
      でもその代わりだかなんだか、
      温かさを感じないんですね~


      わかります。すっごく、よくわかります。
      結局、この【極端に走らない。いつも真ん中、そこそこ、無難。】という中庸の人達と、それ以外の人種(自分を含む)の間に何があるのか、を考えると、


      バカ/アホになりきって、がむしゃらまで突き進む
      (そして、派手にぶっ倒れるか、もしくは大岩を突き崩すか...。)


      という


      【バカ/アホ力(ぢから)】が生き方の根っこにあるかどうか、

      なんですね〜。 
      村上和雄先生流の【アホは神の望み】の、【アホぢから】ですよ☆


      無理なことにはチャレンジしないから
      取り乱したりしない優等生。という立派な肩書きがつくわけですが



      【アホぢから】をあまり表に出さない人達。
      確かにそういう印象があります。外さない、はみ出さない。でも、正直言って、いつも「予想を裏切らない」。


      T.I.さんにお返事しようと考えを転がしているうちに、だんだんわかってきたのですが、
      今、自分は【アホぢから】と縁の無い人との付き合いに急速に興味を失いつつあるんですね。


      バカと言われようが、アホと言われようが、
      自分の好きなこと、「これぞ!」と決めたことを自由に、嬉々として(世間では「いい年して...」と冷たいこと言うんでしょうけど。フンッ。)やっている、
      もしくは、やってやるぜ!と、意欲的になっている人...。
      そういう人達ともっと話したい、そういう人達の声を聞きたい、って、心の底から望むようになってきたんですよ。
      自分だって、【アホの神様】の命ずるままに、あ や す ぃ 本読みまくったり、占い修行('`,、('∀`) '`,、)したり、その他もろもろ後悔しないよう、出来るだけのことはやっていきたい。
      となると、人付き合いにかけられる心のエネルギーにも時間にも限りがある。
      人との距離の取り方、エネルギーの注ぎ方も、必然的に変わってきますよね。


      自分自身が今、バージョン2.0になりつつあるのに、いつまでもバージョン1.0の時に付き合っていた人と同じ対人感のままではいられないのだ。
      バージョンアップしていきたかったら、人付き合いのやり方も、そして付き合う人種も絞り込んでそれなりにアップデートしていかないと、どこかで誤作動起こしてフリーズしちゃうぞ。
      ...ってことなんでしょうね。

      長くなったので次に行きます。

      削除
    2. でも、★今★の自分にとってあまり興味無いからといって、そのような【アホぢから】の希薄な人達をけなす、バカにする、っていうのは、ここで私がやろうとしていることではないんですよ。


      ハメを外すことなく、大きく道をそれることもない。
      日夜家族や周囲の人達のために尽くし、
      世間の人達から見て「ちゃんとこなしているわねー」と褒められながらまじめに頑張っている
      【中庸】重視の人達は、きっと


      可憐に咲き続けるお花


      のように生きることを敢えて選択した人達なんだなぁ、って。
      ふと気が付いたんですね。


      たんぽぽ、桜、チューリップ、牡丹、すずらん、ひまわり、りんどう、椿...。
      お花は色々ありますが、決して自分から「今、好評開花中!!!」なんて派手なCM打ったりしませんよね。
      道行く人がふと、目を止めてくれて「ああ、きれいだなぁ...。」と、感じてくれればそれでいい。
      素通りされても、はたまた、わざわざ切り取って家に持ち帰り、花瓶に活けて家族みんなで楽しんでくれても、それもまた、良し。

      基本的に桜は桜。ひまわりはひまわり。コスモスはコスモス。
      【アホぢから】起こしてちょいとイメチェンしてみます、なんてことはやりません(笑)。
      決まった時期に、決まった色で花開き、私たちの心を和ませてくれる。
      見返りなんか期待しないで。
      お花の無くなってしまった世界、一体どれ程味気なく、殺伐としたものになるか。
      考えただけでぞっとしてしまいます。


      そういうお花さんのような生き方をする人を見て、「面白くな〜い。」なんて言うのは、
      見る者の心が傲慢さで汚れているから、なんですね。
      今回、友人に対して自分がそのような間違った見方を長年(高校生の時から、ずっと。)抱いていたこと、はっきりと気付かされました。
      彼女は彼女らしく、いつまでもりんどうの花(←そういうイメージの人なんです。)のような存在でいてくれればそれでいいんですよ。
      何だかんだ言っても、私はそんな彼女のことがやはり好きなんだっていうことも、再確認しました。
      確かに、丁々発止のやり取りは期待できない相手です。
      それでもなお、人間として好感を抱いていることには変わりないんだ、って。
      (やり取りしたけりゃ、他に好敵手は何人かいるので、そっちを相手に思いっきり発散してくればいいのです。)


      向田邦子さんが
      わたしはどちらかというと負け犬のほうが好きです
      相手に一度や二度、かみつかれたことのある人のほうが
      思いやりがあって、好きです。
      という文を見たとき、深く共感し
      彼女たちは、かみつかれたことが無いんだな、
      というか、かみつかれることがないように生きているんだな
      と思いました



      うわぁ。
      さすがですね。
      台湾の航空機事故でお亡くなりになった、という以外、ほとんど向田さんについては知らないのですが、そういう鋭い人間観をお持ちの人なんですね。


      時々、精神世界(スピ系...)系の、ややもすると偽善的な世界観に毒されちゃっているかなぁ、って思います。
      「みんな神の子だから...愛することが全て...云々。」
      ってな感じの、人の心のブラックな部分とか、毒々しい感情とか、そういうのを排除したことしか書けなくなっている自分に気付き、「なんかウソくさいよなー」って感じるんですよね。
      あまりにもウソ臭いのはさすがにネットに残さないで、捨てちゃいますけど。

      そういう束縛を突き抜けた、気持ちいいほどに痛快なことをズバッと書く勇気と才能をお持ちの向田さんの文章、ちょっと読んでみたくなりました。ご紹介ありがとうございます!
      結局、キラキラ☆ハピラキ☆ラブラブ☆だけでは済まないですからね、私たちのいるこの世界は。

      そういう、人間の中に巣食う闇の部分から逃げずに、真正面から見据えて格闘する人。
      チャレンジャーとして尊敬したくなります。


      「平和できれいで愛があるのが一番。」
      なんていうセリフは、本当に修羅場をくぐり抜けた人にこそふさわしいのであって、
      「痛いのヤダ〜...」
      「辛いのキライ〜...」
      「醜い部分は見たくない〜...」
      なんて、逃げの姿勢でずっとやってきたような、甘々な人には言っていただきたくない。
      ...そう思います。


      これについては、次回にでももうちょっと書きますので、今日はこの辺で。

      本当に、色々なヒントをありがとうございました!!! T.I.さんのコメントでびんびん脳細胞刺激されちゃいましたよ(笑)。


      皆既月食、そちらでは見られるかなあ。(こちらでは普通の満月だったような...。)
      今日も素敵な一日をお過ごしくださいね。

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